和俗男子訓 / 巻一・老いても衰えぬ志と文武兼備の義家
一晉成公二年、齊高固入晉師、桀石以投人、禽之而乘其車、繫桑本焉、以徇齊壘曰、欲勇者、買余餘勇(言己勇有餘、欲賣之)是また勇氣と、膂力とを兼たるなり、一趙溫居は、常に歎ずるに、大丈夫當雄飛、安能雌伏、といひ、王處仲は、老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壯心不已とうたへり、士たるもの、勇氣を撓まざると、如斯にして、棺を蓋てやむべし、一後漢趙嘉與兄子書云、大丈夫遁無箕山之操、仕無伊呂之勳、天不我與、復何言哉、可立一圓石於吾墓門側、刻之曰、漢有逸民、姓趙名嘉、有志無時也奈何、といへり、丈夫の識趣もつとも感ずべし、一八幡太郎義家は、武勇古今にならびなきのみにあらず、大江匡房につきて、書を讀めり、武衡家衡と戰へるとき、敵伏兵を設けてはかりしに、鴈の連を亂りしを見て、伏兵ありと知て、三十餘人を尋得たり、後に義家われ文の道をうかゞはずは、こゝにて敵の爲に敗られなましと、いはれしとなむ、
新字:一晋成公二年、斉高固入晋師、桀石以投人、禽之而乗其車、繋桑本焉、以徇斉塁曰、欲勇者、買余余勇(言己勇有余、欲売之)是また勇気と、膂力とを兼たるなり、一趙温居は、常に嘆ずるに、大丈夫当雄飛、安能雌伏、といひ、王処仲は、老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壮心不已とうたへり、士たるもの、勇気を撓まざると、如斯にして、棺を蓋てやむべし、一後漢趙嘉与兄子書云、大丈夫遁無箕山之操、仕無伊呂之勲、天不我与、復何言哉、可立一円石於吾墓門側、刻之曰、漢有逸民、姓趙名嘉、有志無時也奈何、といへり、丈夫の識趣もつとも感ずべし、一八幡太郎義家は、武勇古今にならびなきのみにあらず、大江匡房につきて、書を読めり、武衡家衡と戦へるとき、敵伏兵を設けてはかりしに、鴈の連を乱りしを見て、伏兵ありと知て、三十余人を尋得たり、後に義家われ文の道をうかゞはずは、こゝにて敵の為に敗られなましと、いはれしとなむ、
書き下し
一晉成公二年、齊高固入晉師、桀石以投人、禽之而乘其車、繫桑本焉、以徇齊壘曰、欲勇者、買余餘勇(言己勇有餘、欲賣之)是また勇氣と、膂力とを兼たるなり、一趙溫居は、常に歎ずるに、大丈夫當雄飛、安能雌伏、といひ、王處仲は、老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壯心不已とうたへり、士たるもの、勇氣を撓まざると、如斯にして、棺を蓋てやむべし、一後漢趙嘉與兄子書云、大丈夫遁無箕山之操、仕無伊呂之勳、天不我與、復何言哉、可立一圓石於吾墓門側、刻之曰、漢有逸民、姓趙名嘉、有志無時也奈何、といへり、丈夫の識趣もつとも感ずべし、一八幡太郎義家は、武勇古今にならびなきのみにあらず、大江匡房につきて、書を讀めり、武衡家衡と戰へるとき、敵伏兵を設けてはかりしに、鴈の連を亂りしを見て、伏兵ありと知て、三十餘人を尋得たり、後に義家われ文の道をうかゞはずは、こゝにて敵の爲に敗られなましと、いはれしとなむ、
現代語訳
晉の成公二年、齊の高固が晉の軍に入り込み、石を持ち上げて人に投げつけ、その人を捕らえてその車に乗り、桑の根本につないで、齊の陣営を巡って言うには、勇を求める者は我が余った勇を買え、と(自分の勇に余りがあり、これを売ろうというのです)。これもまた勇気と腕力を兼ね備えた例です。趙温は常に嘆いて、大丈夫は雄として飛ぶべきで、どうして雌のように伏していられようか、と言いました。王処仲は、老いた駿馬が馬屋に伏していても志は千里にあり、烈士は晩年になっても壮んな心はやまない、と詠みました。士たる者、勇気をたわめないことは、このように、棺を閉じるまで続けるべきです。後漢の趙嘉が兄の子に与えた手紙に言うには、大丈夫は、世を逃れても箕山の節操がなく、仕えても伊尹や呂尚の功績がなく、天が私に味方しない。何を言おうか。丸い石を一つ私の墓の門のそばに立て、漢に逸民あり、姓は趙、名は嘉、志はあったが時がなかった、いかんともしがたい、と刻め、とあります。丈夫の見識と趣はまことに感心すべきです。八幡太郎義家は、武勇が古今に並びないだけではなく、大江匡房について書を読みました。武衡・家衡と戦ったとき、敵が伏兵を置いて謀りましたが、雁の列が乱れたのを見て伏兵がいると知り、三十人余りを探し出しました。後に義家は、私が文の道を学ばなかったなら、ここで敵に敗れていただろう、と言われたということです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・立節士君子の勇有りて行に果なる者、以て節を立て誼を行わずして、妄死非名を以てするは、豈に痛ましからずや。士殺身以て仁を成し、害に触れて以て義を立て、節理に倚りて死地を議せざる有り。故に能く身死して名来世に流る、勇断有るに非ずんば、孰か能く之を行わんや。
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『講孟余話』公孫丑上 第二章「孟施舎の勇を養ふ所や」。此の章浩然の気を論ず、其の論甚だ盛大雄偉なり。北宮黝・孟施舎の勇の如きは固より言ふに足らず。但し孟施舎の勇は、武士戦場に向ふ時は角こそ有り度きことなり、因りて其の略を言はん。無懼の二字是れ主なり。勇気敵を呑むと云ふ如く、百万の大敵目に余ると雖も、屑ともせぬことなり。死を知れば必ず勇と云へば、打死と覚悟さへ定まりたれば、大敵猛勢も畏るるに足ることなし。然れども此の勇を養ひて大になさざれば、仮令覚悟定まりたれども、勇気敵を呑む所なし、未だ孟施舎の勇を語るに足らず。孟施舎の如き者一人陣中にあれば、惣軍の気是れが為に大いに増盛し、敗軍も転じて勝軍となる者なり。此の人一人国中にあれば、闔国の気是れが為に増盛し、弱国も転じて強国となる者なり。況や此の人を挙げて将帥の任となすに於てをや。強将の下弱兵なきこと必せり。士安ぞ茲に志さざるべけんや。
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『春秋左氏伝』哀公二年 鉄の戦い下卿の罰なり」と。甲戌、將に戰はんとす。郵無恤、簡子に御たり、衛の太子右たり。鐵上に登り、鄭の師の眾きを望見す。大子懼れ、自ら車下に投ず。子良、大子に綏を授けて之に乘らしめて曰く、「婦人なり」と。簡子列を巡りて曰く、「畢萬は匹夫なり。七たび戰ひて皆獲、馬百乘を有ちて、牖下に死せり。群子之を勉めよ。死は寇に在らず」と。繁羽、趙羅に御たり、宋勇右たり。羅勇無く、之を麇(つな)ぐ。吏之を詰る。御對へて曰く、「痁作りて伏せり」と。衛の大子禱りて曰く、「曾孫蒯聵、敢へて昭らかに皇祖文王・烈祖康叔・文祖襄公に告ぐ。鄭勝は亂に從ひ、晉午は難に在りて、亂を治むる能はず、鞅をして之を討たしむ。蒯聵敢へて自ら佚せず、矛を持するに備はる。敢へて告ぐ、筋を絕つこと無く、骨を折ること無く、面を傷つくること無く、以て大事を集(な)さしめよ。三祖の羞と作ること無からん。大命は敢へて請はず。佩玉は敢へて愛まず」と。鄭人、簡子を擊ちて肩に中つ。車中に斃る。其の蜂旗を獲たり。大子之を救ふに戈を以てす。鄭の師北(に)ぐ。溫の大夫趙羅を獲たり。大子復た之を伐つ。
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論語・述而篇子、顔淵に謂いて曰く、「之を用うれば則ち行い、之を舎つれば則ち蔵る。惟だ我と爾と是れ有るかな。」子路曰く、「子、三軍を行らば、則ち誰と与にせん。」子曰く、「暴虎馮河、死して悔い無き者は、吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ、謀を好みて成す者なり。」
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『武道初心集』治家武士たらむもの。我が妻女の身の上に於て。心に叶はざる義有之候はゞ。事の道理をいひ分けて。よく合點致す樣に申し敎へ。少々の義ならば思ひ免し。堪忍仕りて差置尤に候。然れ共元來心だて惡く。畢竟用に立間敷と存ずる程ならば。一向に暇を遣はし。親のもとへ送り返すは格別の義に候。左ながら左樣にも致さず。我が女房と定め。奧樣かみ樣と人にも言はせて指置者へ對し。高聲を揚げ。種々の惡口雜言に及ぶは。市町の裏屋脊戸屋の。傭夫役丁の風情は格別。既に一騎役をも勤むる武士の所行には。決して有まじき義に候。況や腰刀などをひねくり廻し。或は握り拳の一つもあて候類は。言語道斷の事にて臆病武士の仕業に候。子細を申すに武士の娘に生れ。人の女房と成程の年齡にて。男子の義ならば人に拳をあてられては中々こらへぬ筈なれ共。女性の淺ましさに。是非なく涙を流して。堪忍をば仕るにて候。總じて我に手向ひのならぬ相手と見懸て。理不盡の仕形に及ぶ義をば。猛き武士は決して致さぬものに候。猛き武士の嫌ふてせぬ事を。好みて致すものをさして。臆病者とは申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
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『肝要工夫録』・勇気とは勇はいさむと訓じて、何事も決斷よく、物事をしとげ、少しも臆する氣なく、外は溫和謙遜にして、かりそめにも、人の無禮を咎めず、內に勇剛を專にして、血氣麁忽の振舞なく、いかにも柔に見ゆるといへども、心操の大丈夫なること、鐵石の如くなるを、勇氣の者といふ。武士は、とりわけ勇氣なくては叶はぬ事にて、諺にも、唐土の虎は毛を惜み、日本の武士は名を惜むといへるは本朝の武士の勇氣を、よく〱言ひ取りたる言葉なり。名を惜むは、恥ある士の心にて、義勇ともに名を惜む中に備はることなれば、名利などいへる意味とは大に違ふ事なり。故に勉めて武勇を勵むべき事、肝要なり。しかれども、あしく勇に勵むときは、血氣の勇にして、俠者といふ者なり。

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