春秋左氏伝 / 哀公二年 鉄の戦い
下卿之罰也。甲戌。將戰。郵無恤御簡子。衛太子為右。登鐵上。望見鄭師眾。大子懼。自投于車下。子良授大子綏而乘之。曰。婦人也。簡子巡列。曰。畢萬匹夫也。七戰皆獲。有馬百乘。死於牖下。群子勉之。死不在寇。繁羽御趙羅。宋勇為右。羅無勇麇之。吏詰之。御對曰。痁作而伏。衛大子禱曰。曾孫蒯聵。敢昭告皇祖文王。烈祖康叔。文祖襄公。鄭勝亂從。晉午在難。不能治亂。使鞅討之。蒯聵不敢自佚。備持矛焉。敢告無絕筋。無折骨。無面傷。以集大事。無作三祖羞。大命不敢請。佩玉不敢愛。鄭人擊簡子中肩。斃于車中。獲其蜂旗。大子救之以戈。鄭師北。獲溫大夫趙羅。大子復伐之。
新字:下卿之罰也。甲戌。将戦。郵無恤御簡子。衛太子為右。登鉄上。望見鄭師衆。大子懼。自投于車下。子良授大子綏而乗之。曰。婦人也。簡子巡列。曰。畢万匹夫也。七戦皆獲。有馬百乗。死於牖下。群子勉之。死不在寇。繁羽御趙羅。宋勇為右。羅無勇麇之。吏詰之。御対曰。痁作而伏。衛大子祷曰。曽孫蒯聵。敢昭告皇祖文王。烈祖康叔。文祖襄公。鄭勝乱従。晋午在難。不能治乱。使鞅討之。蒯聵不敢自佚。備持矛焉。敢告無絶筋。無折骨。無面傷。以集大事。無作三祖羞。大命不敢請。佩玉不敢愛。鄭人撃簡子中肩。斃于車中。獲其蜂旗。大子救之以戈。鄭師北。獲温大夫趙羅。大子復伐之。
書き下し
下卿の罰なり」と。甲戌、將に戰はんとす。郵無恤、簡子に御たり、衛の太子右たり。鐵上に登り、鄭の師の眾きを望見す。大子懼れ、自ら車下に投ず。子良、大子に綏を授けて之に乘らしめて曰く、「婦人なり」と。簡子列を巡りて曰く、「畢萬は匹夫なり。七たび戰ひて皆獲、馬百乘を有ちて、牖下に死せり。群子之を勉めよ。死は寇に在らず」と。繁羽、趙羅に御たり、宋勇右たり。羅勇無く、之を麇(つな)ぐ。吏之を詰る。御對へて曰く、「痁作りて伏せり」と。衛の大子禱りて曰く、「曾孫蒯聵、敢へて昭らかに皇祖文王・烈祖康叔・文祖襄公に告ぐ。鄭勝は亂に從ひ、晉午は難に在りて、亂を治むる能はず、鞅をして之を討たしむ。蒯聵敢へて自ら佚せず、矛を持するに備はる。敢へて告ぐ、筋を絕つこと無く、骨を折ること無く、面を傷つくること無く、以て大事を集(な)さしめよ。三祖の羞と作ること無からん。大命は敢へて請はず。佩玉は敢へて愛まず」と。鄭人、簡子を擊ちて肩に中つ。車中に斃る。其の蜂旗を獲たり。大子之を救ふに戈を以てす。鄭の師北(に)ぐ。溫の大夫趙羅を獲たり。大子復た之を伐つ。
現代語訳
――これは下卿に対する罰の規定である」。甲戌の日、いよいよ戦おうとした。郵無恤(ゆうむじゅつ、字は子良)が簡子(趙鞅)の御者となり、衛の太子(蒯聵)が車右となった。鉄(てつ)の丘に登り、鄭の軍が多いのを遠く見た。太子は恐れて、自ら車から飛び降りた。子良は太子に車に乗るための綱を渡して乗せ、「女のようだ」と言った。簡子は隊列を見回って言った。「畢万(ひつまん、魏氏の祖)は一介の武士にすぎなかったが、七度戦ってすべて敵を捕らえ、馬百乗を持つ身となり、窓の下で(天寿を全うして)死んだ。諸君、努めよ。死ぬと決まっているのは敵の手にかかることではない」。繁羽(はんう)が趙羅(ちょうら)の御者、宋勇が車右であった。趙羅は臆病で、車に縛りつけられていた。軍吏がそのわけを問いただすと、御者は答えた。「瘧(おこり)の発作が起きて伏せっているのです」。衛の太子は祈って言った。「曾孫の蒯聵、謹んで皇祖文王、烈祖康叔、文祖襄公に明らかに申し上げます。鄭の勝(鄭の声公)は乱に加担し、晋の午(晋の定公)は難儀に陥って乱を治められず、鞅(趙鞅)に討たせております。蒯聵は自ら安逸をむさぼることなく、矛を執って車右を務めております。謹んで申し上げます。筋を断たれず、骨を折られず、顔を傷つけられることなく、大事を成し遂げさせてください。三祖の恥とはなりません。命のことまではあえてお願いしません。佩玉も惜しみません(捧げものとして差し出します)」。鄭の兵が簡子を撃って肩に当て、簡子は車中に倒れた。鄭は趙氏の蜂旗(ほうき)を奪った。太子は戈を振るって簡子を救った。鄭の軍は敗走した。鄭側についていた温の大夫趙羅を捕らえた。太子はさらに鄭軍を追撃した。
解説
この章句が説くこと
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史記 李将軍列伝此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。
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『春秋左氏伝』文公二年 狼瞫、死所を得る瞫曰く、「《周志》に之れ有り、『勇にして則ち上を害するは、明堂に登らず』と。死して義ならざるは、勇に非ざるなり。共に用ゐらるる之を勇と謂ふ。吾勇を以って右を求む。勇無くして黜けらるるは、亦た其の所なり。上我を知らずと謂ふも、黜けられて宜ならば、乃ち我を知るなり。子姑く之を待て」と。彭衙に及びて既に陳し、其の屬を以って秦の師に馳せ、焉に死す。晉の師之に從ひ、大いに秦の師を敗る。君子謂ふ、狼瞫是に於いてか君子なり、と。《詩》に曰く、「君子如し怒らば、亂庶(こひねが)はくは遄(すみ)やかに沮(や)まん」と。又曰く、「王赫として斯れ怒り、爰に其の旅を整ふ」と。怒りて亂を作さず、而して以って師に從ふ、君子と謂ふ可し。秦伯猶ほ孟明を用ふ。孟明增して國政を脩め、重ねて民に施す。趙成子諸大夫に言ひて曰く、「秦の師又至らば、將に必ず之を辟けんとす。懼れて德を增す、當たる可からざるなり。《詩》に曰く、『爾が祖を念ふ毋からんや、聿(ここ)に厥の德を脩む』と。孟明之を念へり。德を念ひて怠らず、其れ敵す可けんや」と。
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孫子・九地篇吾が士に余財無きは、貨を悪むに非ざるなり。余命無きは、寿を悪むに非ざるなり。令の発するの日、士卒の坐する者は涕襟を沾し、偃臥する者は涙頤に交わる。之を往く所無きに投ずれば、則ち諸・劌の勇なり。
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論語・述而篇子、顔淵に謂いて曰く、「之を用うれば則ち行い、之を舎つれば則ち蔵る。惟だ我と爾と是れ有るかな。」子路曰く、「子、三軍を行らば、則ち誰と与にせん。」子曰く、「暴虎馮河、死して悔い無き者は、吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ、謀を好みて成す者なり。」
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説苑・立節士君子の勇有りて行に果なる者、以て節を立て誼を行わずして、妄死非名を以てするは、豈に痛ましからずや。士殺身以て仁を成し、害に触れて以て義を立て、節理に倚りて死地を議せざる有り。故に能く身死して名来世に流る、勇断有るに非ずんば、孰か能く之を行わんや。
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論語・衛霊公篇子曰く、「賜や、女予を以て多く学びて之を識る者と為すか。」対えて曰く、「然り。非なるか。」曰く、「非なり。予は一以て之を貫く。」
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