うひ山ぶみ / 注[ヤ]いにしへ人の風雅ミヤビのおもむき
末にのみかゝづらふは、實にいにしへを好むといふものにはあらず、さては哥をよむも、まことにあだ事にぞ有ける、のりなががをしへにしたがひて、ものまなびせんともがらは、これらのこゝろをよく思ひわきまへて、あなかしこ、道をなほざりに思ひ過すことなかれ、
新字:末にのみかゝづらふは、実にいにしへを好むといふものにはあらず、さては歌をよむも、まことにあだ事にぞ有ける、のりなががをしへにしたがひて、ものまなびせんともがらは、これらのこゝろをよく思ひわきまへて、あなかしこ、道をなほざりに思ひ過すことなかれ、
書き下し
末にのみかゝづらふは、実にいにしへを好むといふものにはあらず、さては歌をよむも、まことにあだ事にぞ有ける、のりなががをしへにしたがひて、ものまなびせんともがらは、これらのこゝろをよく思ひわきまへて、あなかしこ、道をなほざりに思ひ過すことなかれ、
現代語訳
末ばかりにかかわるのは、本当に古を好むというものではない。そうであっては、歌を詠むのもまことに無益な事になってしまうのである。宣長の教えに従って学問をしようとする人々は、これらの心をよく思いわきまえて、くれぐれも、決して道をなおざりに思って過ごすことのないように。
解説
『うひ山ぶみ』の注はこの一節で結ばれる。本である道をさしおいて末ばかりに関わるのは、本当に古を好むことではなく、そうなれば歌を詠むこともまことに無益な事になる。宣長は最後に自らの名を記し、自分の教えに従って学ぶ者は道をなおざりにしてはならないと、「あなかしこ」の語で強く念を押す。歌を詠み、物語を読み、雅を知ることは、それ自体が目的ではなく、古の道を明らめるための階梯であった。『古事記伝』を書き終えた六十九歳の宣長が、門人に最後に託したのがこの戒めである。技芸を楽しむことと、それを通して何に至るかを問うこと。あなたの学びの「本」は何だろうか。
この章句が説くこと
古の道本末学問宣長戒め
関連する章句
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