うひ山ぶみ / 第五十段
こたみ此書かき出デつることは、はやくより、をしへ子どもの、ねんごろにこひもとめけるを、年ごろいとまなくなどして、聞過しきぬるを、今は古事記ノ傳もかきをへつればとて、又せちにせむるに、さのみもすぐしがたくて、物しつる也、にはかに思ひおこしたるしわざなれば、なほいふべき事どもの、もれたるなども多かりなんを、うひまなびのためには、いさゝかたすくるやうもありなんや、いかならむうひ山ぶみのあさごろも淺きすそ野のしるべばかりも本居宣長寛政十年十月の廿一日のゆふべに書をへぬ
新字:こたみ此書かき出デつることは、はやくより、をしへ子どもの、ねんごろにこひもとめけるを、年ごろいとまなくなどして、聞過しきぬるを、今は古事記ノ伝もかきをへつればとて、又せちにせむるに、さのみもすぐしがたくて、物しつる也、にはかに思ひおこしたるしわざなれば、なほいふべき事どもの、もれたるなども多かりなんを、うひまなびのためには、いさゝかたすくるやうもありなんや、いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも本居宣長寛政十年十月の廿一日のゆふべに書をへぬ
書き下し
こたみ此書かき出デつることは、はやくより、をしへ子どもの、ねんごろにこひもとめけるを、年ごろいとまなくなどして、聞過しきぬるを、今は古事記ノ伝もかきをへつればとて、又せちにせむるに、さのみもすぐしがたくて、物しつる也、にはかに思ひおこしたるしわざなれば、なほいふべき事どもの、もれたるなども多かりなんを、うひまなびのためには、いさゝかたすくるやうもありなんや、いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも本居宣長寛政十年十月の廿一日のゆふべに書をへぬ
現代語訳
このたびこの書を書き出したのは、以前から門人たちが熱心に請い求めていたのを、長らく暇がないなどして聞き流してきたところ、今は『古事記伝』も書き終えたのだからと、また切に迫られ、それ以上やり過ごしがたくて書いたのである。急に思い立った仕事なので、なお言うべきことで洩れたものも多かろうが、初学の人のためには、いささか助けとなることもあろうか。/いかならむ うひ山ぶみの あさごろも 浅きすそ野の しるべばかりも/本居宣長 寛政十年十月二十一日の夕べに書き終えた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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尚書・大誥考室を作るが若く、既に法を厎すも、厥の子乃ち堂を肯えてせず、矧んや構を肯えてせんや。
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論語 里仁篇子曰わく、三年、父の道を改むる無きは、孝と謂うべし。
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尚書・多士惟れ殷の先人に冊有り典有り。