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うひ山ぶみ / 注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたる

吾はかくのごとく思ひとれる故に、吾家、すべて先祖の祀リ、供佛施僧のわざ等も、たゞ親の世より爲來りたるまゝにて、世俗とかはる事なくして、たゞこれをおろそかならざらんとするのみ也、學者はたゞ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず、されば隨分に、古の道を考へ明らめて、そのむねを、人にもをしへさとし、物にも書キ遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし、これ宣長が志シ也、初學のともがらは宣長が着したる云々、神典には、世々の注釋末書あまたあるを、さしおきて、みづから著せる書を、まづよめといふは、大に私なるに似たれども、必然然すべき故あり、いで其故は、注釋末書は多しといへども、まづ釋日本紀などは、道の意を示し明したる事なく、私記の說といへども、すべていまだしくをさなき事のみ也、又その後々の末書注釋どもは、佛と儒との意にして、さらに古の意にあらず、

新字:吾はかくのごとく思ひとれる故に、吾家、すべて先祖の祀リ、供仏施僧のわざ等も、たゞ親の世より為来りたるまゝにて、世俗とかはる事なくして、たゞこれをおろそかならざらんとするのみ也、学者はたゞ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず、されば随分に、古の道を考へ明らめて、そのむねを、人にもをしへさとし、物にも書キ遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし、これ宣長が志シ也、初学のともがらは宣長が着したる云々、神典には、世々の注釈末書あまたあるを、さしおきて、みづから著せる書を、まづよめといふは、大に私なるに似たれども、必然然すべき故あり、いで其故は、注釈末書は多しといへども、まづ釈日本紀などは、道の意を示し明したる事なく、私記の説といへども、すべていまだしくをさなき事のみ也、又その後々の末書注釈どもは、仏と儒との意にして、さらに古の意にあらず、

書き下し

吾はかくのごとく思ひとれる故に、吾家、すべて先祖の祀リ、供仏施僧のわざ等も、たゞ親の世より為来りたるまゝにて、世俗とかはる事なくして、たゞこれをおろそかならざらんとするのみ也、学者はたゞ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず、されば随分に、古の道を考へ明らめて、そのむねを、人にもをしへさとし、物にも書キ遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし、これ宣長が志シ也、初学のともがらは宣長が著したる云々、神典には、世々の注釈末書あまたあるを、さしおきて、みづから著せる書を、まづよめといふは、大に私なるに似たれども、必然然すべき故あり、いで其故は、注釈末書は多しといへども、まづ釈日本紀などは、道の意を示し明したる事なく、私記の説といへども、すべていまだしくをさなき事のみ也、又その後々の末書注釈どもは、仏と儒との意にして、さらに古の意にあらず、

現代語訳

私はこのように思い定めているので、わが家では、すべて先祖の祭り、仏への供養や僧への布施などのわざも、ただ親の代からしてきたままにして、世俗と変わることなく、ただこれをおろそかにしないようにしているだけである。学者はただ、道を尋ねて明らかに知ることを務めとすべきであり、私に道を行うべきものではない。だから力の限り古の道を考え明らかにして、その趣旨を人にも教え諭し、書物にも書き遺しておいて、たとえ五百年、千年の後であっても、時が至って、上がこれを用い行いなさって、天下に敷き施しなさる世を待つべきである。これが宣長の志である。『初学のともがらは宣長が著したる』云々について。神典には代々の注釈や末書が多くあるのを差し置いて、自分の著した書をまず読めと言うのは、たいへん私的なことのようであるが、必ずそうすべき理由がある。さてその理由は、注釈や末書は多いといっても、まず『釈日本紀』などは道の意を示し明らかにしたことがなく、私記の説といっても、すべてまだ未熟で幼いことばかりである。またその後々の末書や注釈は、仏と儒の意によっていて、まったく古の意ではない。

解説

注[ホ]の結びで宣長は、自分の家の暮らしを明かす。先祖の祭りも仏への供養も親の代からのままに行い、世俗と変えることはしない。学者の務めは道を明らかにして人に教え、書き遺すことであり、私に道を行うことではない。五百年、千年の後でも、上がそれを用いる世を待つ、これが宣長の志だという。三十五年に及んだ古事記伝の仕事を支えたのは、この気の長い構えである。後半は注[ヘ]で、本文の「初学のともがらは宣長が著したる」書をまず読めという勧めを弁明する。自著を先に読めとは私的に見えるが、『釈日本紀』は道の意を示さず、後世の注釈は仏儒の意に染まっているからだという。生きているうちに成果が認められなくても、書き遺すことに意味を見いだせるだろうか。

この章句が説くこと

志学者古事記伝釈日本紀後世

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