うひ山ぶみ / 注[ヘ]初学のともがらは宣長が著したる
返て大に道を害することのみ也、されば今、道のために、見てよろしきは、一つもあることなし、さりとて又初學のともがら、いかほど力を用ふとも、二典の本文を見たるばかりにては、道の趣、たやすく會得しがたかるべし、こゝにわが縣居ノ大人は、世の學者の、漢意のあしきことをよくさとりて、ねんごろにこれをさとし敎へて、盛ンに古學を唱へ玉ひしかども、其力を万葉集にむねと用ひて、道の事までは、くはしくは及ばれず、事にふれては、其事もいひ及ぼされてはあれども、力をこれにもはらと入れられざりし故に、あまねくゆきわたらず、されば道のすぢは、此大人の說も、なほたらはぬこと多ければ、まづ速に道の大意を心得んとするに、のり長が書共をおきて外に、まづ見よとをしふべき書は、世にあることなければ也、さる故に下には、古事記傳をも、おほけなく古書共にならべて、これをあげたり、かくいふをも、なほ我慢なる大言のやうに、思ひいふ人もあるべけれど、さやうに人にあしくいはれんことをはゞかりて、おもひとれるすぢを、
新字:返て大に道を害することのみ也、されば今、道のために、見てよろしきは、一つもあることなし、さりとて又初学のともがら、いかほど力を用ふとも、二典の本文を見たるばかりにては、道の趣、たやすく会得しがたかるべし、こゝにわが県居ノ大人は、世の学者の、漢意のあしきことをよくさとりて、ねんごろにこれをさとし教へて、盛ンに古学を唱へ玉ひしかども、其力を万葉集にむねと用ひて、道の事までは、くはしくは及ばれず、事にふれては、其事もいひ及ぼされてはあれども、力をこれにもはらと入れられざりし故に、あまねくゆきわたらず、されば道のすぢは、此大人の説も、なほたらはぬこと多ければ、まづ速に道の大意を心得んとするに、のり長が書共をおきて外に、まづ見よとをしふべき書は、世にあることなければ也、さる故に下には、古事記伝をも、おほけなく古書共にならべて、これをあげたり、かくいふをも、なほ我慢なる大言のやうに、思ひいふ人もあるべけれど、さやうに人にあしくいはれんことをはゞかりて、おもひとれるすぢを、
書き下し
返て大に道を害することのみ也、されば今、道のために、見てよろしきは、一つもあることなし、さりとて又初学のともがら、いかほど力を用ふとも、二典の本文を見たるばかりにては、道の趣、たやすく会得しがたかるべし、こゝにわが県居ノ大人は、世の学者の、漢意のあしきことをよくさとりて、ねんごろにこれをさとし教へて、盛ンに古学を唱へ玉ひしかども、其力を万葉集にむねと用ひて、道の事までは、くはしくは及ばれず、事にふれては、其事もいひ及ぼされてはあれども、力をこれにもはらと入れられざりし故に、あまねくゆきわたらず、されば道のすぢは、此大人の説も、なほたらはぬこと多ければ、まづ速に道の大意を心得んとするに、のり長が書共をおきて外に、まづ見よとをしふべき書は、世にあることなければ也、さる故に下には、古事記伝をも、おほけなく古書共にならべて、これをあげたり、かくいふをも、なほ我慢なる大言のやうに、思ひいふ人もあるべけれど、さやうに人にあしくいはれんことをはゞかりて、おもひとれるすぢを、
現代語訳
かえって大いに道を害することばかりである。だから今、道のために見てよいものは一つもない。かといってまた初学の人々が、どれほど力を用いても、二典の本文を見ただけでは、道の趣をたやすく会得しがたいであろう。ここにわが県居の大人(賀茂真淵)は、世の学者の漢意の悪いことをよく悟って、懇ろにこれを諭し教えて、盛んに古学を唱えなさったが、その力を主に『万葉集』に用いて、道の事まではくわしくは及ばれなかった。事に触れてはその事も言い及ぼされてはいるが、力をもっぱらこれに入れられなかったために、広く行き渡らない。だから道の筋は、この大人の説もなお足りないことが多いので、まず速やかに道の大意を心得ようとするには、宣長の書どもを置いてほかに、まず見よと教えるべき書は世にないからである。そういうわけで、下には『古事記伝』をも、恐れ多くも古書どもに並べてこれを挙げたのである。こう言うのをも、なお我慢な大言のように思って言う人もあるだろうが、そのように人に悪く言われることをはばかって、思い定めた筋を
解説
この章句が説くこと
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うひ山ぶみ・注[ヲ]釈日本紀おのづからめづらしき古書の、世に埋れたるも、顕れ出る有リ、又それにつきては、偽書も多く出るを、その真偽は、よく見る人は、見分れども、初学の輩などは、え見分ねば、偽書によくはからるゝ事あり、心すべし、されば初学のほどは、めづらしき書を得んことをば、さのみ好むべからず、古事記伝云々、みづから著せる物を、かくやむことなき古書どもにならべて挙るは、おふけなく、つゝましくはおぼゆれども、上にいへるごとくにて、上代の事を、くはしく説示し、古学の心ばへを、つまびらかにいへる書は、外になければぞかし、されば同じくは此書も、二典とまじへて、はじめより見てよろしけれども、巻数多ければ、こゝへはまはしたる也、古学の輩の、古学とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問也、此学問、ちかき世に始まれり、契沖ほふし、歌書に限りてはあれど、此道すぢを開きそめたり、此人をぞ、此まなびのはじめの祖ともいひつべき、次にいさゝかおくれて羽倉ノ大人、
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うひ山ぶみ・注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたる吾はかくのごとく思ひとれる故に、吾家、すべて先祖の祀リ、供仏施僧のわざ等も、たゞ親の世より為来りたるまゝにて、世俗とかはる事なくして、たゞこれをおろそかならざらんとするのみ也、学者はたゞ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず、されば随分に、古の道を考へ明らめて、そのむねを、人にもをしへさとし、物にも書キ遺しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし、これ宣長が志シ也、初学のともがらは宣長が著したる云々、神典には、世々の注釈末書あまたあるを、さしおきて、みづから著せる書を、まづよめといふは、大に私なるに似たれども、必然然すべき故あり、いで其故は、注釈末書は多しといへども、まづ釈日本紀などは、道の意を示し明したる事なく、私記の説といへども、すべていまだしくをさなき事のみ也、又その後々の末書注釈どもは、仏と儒との意にして、さらに古の意にあらず、
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うひ山ぶみ・注[ラ]万葉集をよくまなぶべし万葉集をよくまなぶべし、此書は、歌の集なるに、二典の次に挙て、道をしるに甚ダ益ありといふは、心得ぬことに、人おもふらめども、わが師ノ大人の古学のをしへ、専らこゝにあり、其説に、古ヘの道をしらんとならば、まづいにしへの歌を学びて、古風の歌をよみ、次に古の文を学びて、古ヘぶりの文をつくりて、古言をよく知リて、古事記日本紀をよくよむべし、古言をしらでは、古意はしられず、古意をしらでは、古の道は知リがたかるべし、といふこゝろばへを、つねづねいひて、教へられたる、此教へ迂遠きやうなれども、然らず、その故は、まづ大かた人は、言と事と心と、そのさま大抵相かなひて、似たる物にて、たとへば心のかしこき人は、いふ言のさまも、なす事のさまも、それに応じてかしこく、心のつたなき人は、いふ言のさまも、なすわざのさまも、それに応じてつたなきもの也、又男は、思ふ心も、いふ言も、なす事も、男のさまあり、女は、おもふ心も、いふ言も、なす事も、女のさまあり、されば時代々々の差別も、又これらのごとくにて、心も言も事も、上代の人は、
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うひ山ぶみ・注[カ]古学の輩の荷田ノ東麻呂ノ宿禰と申せしは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立玉へりき、かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉ノ大人の教をつぎ給ひ、東国に下り江戸に在て、さかりに此学を唱へ玉へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける、大かた奈良ノ朝よりしてあなたの古ヘの、もろもろの事のさまを、こまかに精しく考へしりて、手にもとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古学のをしへの功にぞ有ける、初心のほどは、かたはしより文義を云々、文義の心得がたきところを、はじめより、一々に解せんとしては、とどこほりて、すゝまぬことあれば、聞えぬところは、まづそのまゝにて、過すぞよき、殊に世に難き事にしたるふしぶしを、まづしらんとするは、いといとわろし、たゞよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也、こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見過せば、すべてこまかなる意味もしられず、又おほく心得たがひの有て、いつまでも、其誤リをえさとらざる事有也、其末の事は、一々さとし教るに及ばず、
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うひ山ぶみ・注[ラ]万葉集をよくまなぶべし上古のなれば、殊に古言古意をしるべき、第一の至宝也、然れどもその数多からざれば、ひろく考るに、ことたらざるを、万葉は、歌数いと多ければ、古言はをさをさもれたるなく、伝はりたる故に、これを第一に学べとは、師も教へられたる也、すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるやうなる理窟は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける、さて此万葉集をよむに、今の本、誤字いと多く、訓もわろきことおほし、初学のともがら、そのこゝろえ有べし、みづからも古風の歌をまなびてよむべし、すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、浅深の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、
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『玉勝間』あがたゐのうしは古学の親なる事からごころをきよく離れて、もはら古のこころ詞をたづぬるがくもんは、わが縣居の大人よりぞはじまりける。この大人の学の、いまだ興らざりしほどの世の学問は、歌もただ古今集よりこなたにのみとどまりて、万葉などは、ただいと物どおく、心も及ばぬ物として、さらにその歌の善き悪しきを思い、古き近きをわきまえ、又その詞を、今のおのが物としてつかう事などは、すべて思いも及ばざりし事なるを、今はその古言をおのがものとして、万葉ぶりの歌をも詠み出で、古ぶりの文などをさえ、書きうることとなれるは、もはらこの大人の教えのいさをにぞ有りける。今の人は、ただおのれみづから得たるごと思うめれど、みなこの大人の御蔭によらずと云うこと無し。また古事記・書紀などの、漢意にまどわされず、まづもはら古言を明らめ、古意によるべきことを、人みな知れるも、この大人の万葉の教えのみたまにぞ有りける。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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