「易占い」と聞くと、多くの人は街角の易者や、筮竹をじゃらりと鳴らす姿を思い浮かべます。当たるのか、当たらないのか。関心はたいていそこに集まります。

けれども、易の本文である『易経』と、それを読み継いできた古典の側から見ると、問いの立て方が少し違います。易は、未来の出来事を言い当てるための道具として重んじられてきたのではありません。いま自分はどんな「時」にいるのかを見定め、その時にふさわしい振る舞いを選ぶための道具として読まれてきました。

そのため古典には、占い方そのものより先に、占いとの付き合い方が書かれています。いつ占うのか。何度占ってよいのか。出た言葉をどう扱うのか。そもそも易をよく知る人は占うのか。

この記事では、尚書・易経・荀子・伝習録から七つの章句を選び、易占いを「当てもの」ではなく判断の作法として読み直します。迷いの多い立場にいる経営者やリーダーにこそ、使い道のある古典の知恵です。

易占いは、最初に聞くものではない

汝則ち大疑有らば、謀ることは乃の心に及び、謀ることは卿士に及び、謀ることは庶人に及び、謀ることは卜筮に及べ。

『尚書』洪範篇は、周の武王が殷の賢者・箕子に政治の大法を尋ねた記録とされます。その中に、大きな迷いが生じたときの諮り方が並んでいます。まず自分の心に問う。次に重臣に諮る。さらに一般の人々に諮る。そして、占いにも問う。

占いは列の最後に置かれています。自分で考えることを飛ばして、いきなり易に答えを求めるのではありません。自分の考え、信頼できる人の意見、現場の声。そこまで重ねてもなお決めきれないとき、はじめて卜筮(亀卜と筮竹による占い)が出てきます。

この順序は、占いを軽んじているわけではありません。むしろ占いに、ほかの手段では届かない役割を与えています。人に相談すれば、相手の立場や遠慮が混じります。自分の心に問えば、望みや恐れが混じります。占いは、そのどちらとも違う角度から判断を照らす、最後の一枚の鏡です。

経営の場面に置き換えるなら、易は「会議を省略するための道具」ではありません。会議を尽くしたあと、それでも割れている判断を、もう一度だけ別の光で見直すための道具です。

出典:尚書 洪範

同じ問いで、易を立て直さない

「初筮には告ぐ」とは、剛中なるを以てなり。「再三すれば瀆る、瀆るれば則ち告げず」とは、蒙を瀆せばなり。

易占いの作法として、もっともよく引かれるのがこの一句です。蒙の卦の卦辞「初筮は告ぐ。再三すれば瀆る。瀆るれば告げず」を、彖伝が解いた箇所です。

最初の真剣な問いには、易は答える。けれども望む答えが出るまで二度三度と立て直せば、問いそのものがけがれ、もう何も告げない。

これは、占いの的中率の話ではありません。問う側の姿勢の話です。気に入らない結果が出たから、もう一度立てる。それは判断を易に預けたのではなく、自分の望みに合う答えを探しているだけです。そうなった時点で、易は鏡ではなくなります。自分の顔を好きなように映す、都合のよい道具になってしまいます。

蒙は、まだ何も知らない子どものような未熟さを表す卦です。「我童蒙に求むるに匪ず、童蒙我に求む」。教えは、学ぶ側が本気で求めてきたときに通じます。易に向かうときも同じです。一度で受け取る覚悟があるかどうかが、答えの質を決めます。

これは会議や相談にも当てはまります。都合の悪い意見が出るたびに、別の人に聞き直す。求めているのは判断の材料ではなく、承認です。初筮の覚悟は、人に意見を求めるときの作法でもあります。

出典:易経 彖伝(蒙)

出た言葉は「当たり外れ」ではなく「味わう」もの

是の故に、君子は居れば則ち其の象を観て、其の辞を玩い、動けば則ち其の変を観て、其の占を玩う。

繋辞伝は、易の読み方そのものを説いた部分です。君子は、静かに居るときには卦の形を観て、そこに付けられた言葉を味わう。動くときには変化の筋道を観て、その判断を味わう。

ここで使われている動詞は「玩う」です。あじわう、もてあそぶように何度も手に取る、という意味です。占いの結果は、当たったか外れたかで一度きりに消費するものではありません。何度も読み返し、自分の状況に照らして意味を汲み出すものだと言っています。

同じ一段の後半には、易の用語の定義が続きます。吉凶は、失うか得るかを語る言葉。悔吝は、小さな疵を語る言葉。そして「咎无し」とは、過ちをよく補ったことを言う、と。

易は、完璧な選択を約束する書物ではありません。人は誤るものだという前提に立ち、その誤りを小さなうちに補う道を示す書物です。吉と出たから安心する、凶と出たから諦める。それでは易を半分しか使っていません。凶の言葉の中に「どこを補えばよいか」を読み取ることこそ、玩うという読み方です。

出典:易経 繋辞上

いま、自分はどの龍か――易は「時」を読む

「潛龍用うるなかれ」とは、陽氣潛み藏るるなり。「見龍田に在り」とは、天下文明なり。「終日乾乾」とは、時と偕に行くなり。……「亢龍悔い有り」とは、時と偕に極まるなり。

易の六十四卦の最初に置かれた乾の卦は、龍の六つの姿で「時」の移り変わりを描きます。水に潜んでまだ用いてはならない龍。地上の田に現れた龍。一日じゅう努め励む時期。淵で躍り上がるかどうかを試す転換期。天を飛ぶ龍。そして昇りつめて悔いを残す龍。

文言伝のこの一段で目を引くのは、どの段階にも「時と偕に」という言葉が添えられていることです。偉かったから飛龍になるのでも、愚かだったから亢龍になるのでもない。時の流れの中で、いまその位置に立っているのだと見ます。

易占いの本当の価値は、ここにあります。未来の出来事を当てるのではなく、いまの自分の時を名づけることです。

潜龍の時に無理に打って出れば、力が育つ前に潰れます。亢龍の時に同じ勢いで押し続ければ、悔いを残します。同じ行動でも、時によって吉にも凶にもなる。だから易は、行動の正解より先に「いまはどの時か」を問います。

事業にも、人生にも、潜む時期と飛ぶ時期があります。うまくいかない時期を、自分の無能とだけ結びつけなくてよい。順調な時期に、自分の力を過信しなくてよい。時を知ることは、自分を責めすぎず、驕りすぎないための物差しになります。

出典:易経 文言(乾)

兆しは、形になる前に現れる

子曰く、「幾を知るは其れ神なるか。……幾なる者は動の微、吉の先ず見るる者なり。君子は幾を見て作ち、日を終うるを俟たず。

「幾」は、動きのごくかすかな始まりを指します。まだ形になっていない、けれども確かに動き出している段階です。繋辞伝は、この幾を知ることを「神」、つまりはかりしれない働きだと言います。

易占いに期待されてきたのは、この兆しを見る力でした。事がはっきり形になってから動いたのでは遅い。数字が悪化してから手を打つのではなく、現場の口数が減った、返信が遅くなった、という微かな変化の段階で気づく。そして「日を終うるを俟たず」、その日のうちに動く。

同じ一段の前半には、器と任の釣り合いを説く言葉もあります。徳が薄いのに位が高い。知恵が小さいのに大事を企てる。力が小さいのに重い任を負う。そうなれば、鼎の足が折れて中身をひっくり返すような失敗は避けられない。兆しを読む前に、まず自分の器を測れということです。

易を立てることは、兆しに気づくための訓練にもなります。卦の言葉を手がかりに、自分の周りで何が動き始めているかを見直す。当たったかどうかより、見落としていた微かな変化に気づけたか。そこに易占いを使う意味があります。

出典:易経 繋辞下

易をよく知る者は、占わない

善く詩を為むる者は説かず、善く易を為むる者は占はず、善く礼を為むる者は相けず。其の心は同じきなり。

ここまで易占いの作法を見てきましたが、荀子はさらに逆説的な一句を残しています。易をよく修めた者は、占わない。

詩に通じた者はくどくど解説しない。礼に通じた者は儀式の介添え役をしない。本当に身についた者は、それを外に出して誇示する必要がない、という意味です。易についても同じで、卦の示す「時」の道理が身についていれば、いちいち筮竹を取らなくても、どう振る舞うべきかがわかってくる。

孔子にも似た言葉があります。『論語』子路篇で、孔子は易の恒の卦の言葉「其の徳を恒にせざれば、或いは之が羞を承く」を引き、「占わざるのみ」と言いました。徳を恒にしない者が恥を受けることは、占うまでもないというのです。

これは占いの否定ではありません。易占いの行き着く先を示しています。はじめは卦の言葉に照らして時を知る。それを繰り返すうちに、時を読む目そのものが自分の中に育っていく。易を立てる回数が自然と減っていくことが、易を学んだ証になります。

出典:荀子 大略篇

占いと道理は、ひとつのもの

卜筮は是れ理なり。理も亦た是れ卜筮なり。……卜筮なる者は、狐疑を決するを求め、吾が心を神明にするに過ぎざるのみ。『易』は是れ諸を天に問う。

明の王陽明は、弟子から問われました。朱子は易を占いの書として読み、程子は道理の書として読む。どちらが正しいのか、と。

陽明の答えは、どちらかを選ぶものではありませんでした。占いは道理であり、道理もまた占いだ。広く学び、詳しく問い、慎んで思い、明らかに見分け、篤く行う。師や友と交わす問答も、すべて占いである、と。

占いとは、迷いを決し、自分の心を明らかにするためのものにすぎない。人は疑いを抱き、自分を信じきれないから、易によって天に問う。人の心には思惑が混じるが、天だけは偽りを容れないからだ、と陽明は言います。

ここに、易占いを使うときのいちばん大切な構えがあります。易に問うのは、答えを外から与えてもらうためではありません。思惑の混じらない鏡に自分の迷いを映し、心を澄ませるためです。

出典:伝習録 黄修易録

結び――易を立てるということ

七つの章句を並べると、易占いの作法がひとつの筋にまとまります。

まず自分と人に諮り、それでも決めきれないときに易に問う(洪範)。同じ問いで立て直さない(蒙)。出た言葉は当たり外れではなく、何度も味わう(繋辞)。問うているのは未来の出来事ではなく、いまの「時」である(乾)。形になる前の兆しに気づく(幾)。そして、やがて占わなくても時が読めるようになる(荀子・論語)。占いとは、心を明らかにするためのものである(伝習録)。

師導の「易を立てる」は、この作法をそのまま形にしました。

硬貨を三枚、六回投げて卦を立てます。どこを読むかは朱子の『易学啓蒙』の定めに従って決め、読み解きの軸は各卦の大象に置きます。大象は「天行は健なり、君子は以て自ら彊めて息まず」(易経 象伝)のように、卦の形から「君子はこれにならって何をするか」を引き出す言葉です。易を、当てものではなくいまの時に何をするかを考える道具として使うための選択です。

蒙の卦の教えに従って、易を立てられるのは月に二回まで。立て直しも、結果の削除もできません。立てた卦の読みはそのまま師導との対話として残り、続けて問いかけることができます。十四日が過ぎたら、その卦をもう一度振り返るよう案内が届きます。玩う、つまり何度も味わうための仕掛けです。

易に問うのは、決断を委ねるためではありません。いまの自分の時を知り、そこでどう動くかを自分で選ぶためです。迷いの深い判断を抱えているときに、一度だけ、真剣に易を立ててみてください。