玉勝間 / 十四の巻 仏経の文
すべて佛經は、文のいと拙き物なり。一つに短く云ひとらるる事を、くだくだしく同じことを長長と云へるなど、天竺國の物云ひにても有るべけれど、いとわづらはしう拙し。
新字:すべて仏経は、文のいと拙き物なり。一つに短く云ひとらるる事を、くだくだしく同じことを長長と云へるなど、天竺国の物云ひにても有るべけれど、いとわづらはしう拙し。
書き下し
すべて仏経は、文のいと拙き物なり。一つに短く云いとらるる事を、くだくだしく同じことを長々と云えるなど、天竺国の物云いにても有るべけれど、いとわずらわしゅう拙し。
現代語訳
およそ仏典は、文章がたいへん拙いものである。一言で短く言い表せることを、くどくどと同じことを長々と言っているなど、天竺の国の物言いでもあるのだろうが、たいへんわずらわしく拙い。
解説
仏典の文章の冗長さを批判した短い段である。一言で言えることを、くどくどと同じ言い回しを繰り返して長々と述べるのは、インドの言葉の習いでもあろうが、わずらわしく拙いと宣長は言う。仏典は、口で唱えて伝えるために、同じ句を繰り返したり、同じ内容を韻文と散文で二度述べたりする形式を多く持っている。それは暗誦しやすく、聞く者の心に刻むための工夫でもあった。前の段で「如是我聞」の語順を批判したのと同じく、仏典を聖なる言葉としてではなく、一つの文章として読んでいる点に、宣長の姿勢がよく表れている。繰り返しの多い文章は、目で読む人にはわずらわしいが、耳で聞く人には分かりやすいこともある。
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 如是我聞もろもろの仏経のはじめに、如是我聞と云える事、さまざま故ある事のごと云いなせれども、末々の文にかなわず。初めにかく云えるは、いずれにしてもひがことにて拙き事なり。又我聞如是とこそ云うべけれ。言のついでも、いと拙し。これらの事、天竺国のなべてのならいにも有るべけれど、なお翻訳者も拙し。すべて漢学びする人の、手をかけるにも、詩文を作れるにも、和習和習と、常に云うことなるを、仏書の文には、又天竺習の多きなり。
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『玉勝間』十の巻 譬、と云ふものの事ただに云いては、ことゆきがたき心も、万の物のうえに譬えて云えば、ことも無くよく聞ゆる事、多く有るわざなり。さればこの譬えと云う事、神代より有りて、歌にも見え、今の世の人も、常にものすることなり。皇国のみにもあらず、戎の国々にも、古えより有りけるを、もろこし人は、すべて物の譬えをとる事、いと上手にて、言すくなくて、いとよく聞えて、げによく譬えたりとおぼゆる事の多かるを、仏の経どもに、殊に多く見えたるたとえは、多くは物遠くして、よくあたれりとも聞えぬ事をくだくだしく長々と云えるなど、いといと拙なし。仏と云える人の云える事も、かかるものにや。
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