玉勝間 / 十四の巻 仮字
皇國の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、假字と云ふもの無くして、せむかたなく止事を得ざる故なり。今はかなと云ふ物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
新字:皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云ふもの無くして、せむかたなく止事を得ざる故なり。今はかなと云ふ物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
書き下し
皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
現代語訳
我が国の言葉を、古い書物で漢文ふうに書いたのは、仮名というものがなくて、仕方なくやむを得なかったからである。今は仮名というものがあって自由に書けるのに、それを捨てて、不自由な漢文で書こうとするのは、なんという心得違いであろうか。
解説
日本語を漢文で書くことへの批判を述べた短い段である。古い時代に日本の言葉を漢文ふうに書いたのは、まだ仮名がなく、ほかに方法がなかったからだと宣長は言う。しかし今は仮名があって、日本語を思うままに書けるのに、わざわざ不自由な漢文で書こうとするのは心得違いだと断じる。江戸時代の知識人の間では、学問的な文章や公式の文書は漢文で書くのが正式とされ、漢文で書けることが教養の証しでもあった。宣長は『古事記伝』をはじめ主要な著作の多くを和文で書き、日本の言葉と心は日本の言葉で表すべきだという考えを実践した。借り物の言葉ではなく、自分の言葉で考え、書くことの大切さを説く段である。
関連する章句
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うひ山ぶみ・注[チ]道をしらんためには、殊に古事記をさき後世のごとく、好みて漢文に書るにはあらず、さて歌は、殊に詞にあやをなして、一もじもたがへては、かなはぬ物なる故に、古書にもこれをば、別に仮字に書り、それも真仮字也、又祝詞宣命なども、詞をとゝのへかざりたる物にて、漢文ざまには書がたければ、これも別に書法有し也、然るを後世に至りては、片仮字平仮字といふ物あれば、万の事、皇国の語のまゝに、いかやうにも自由に、物はかゝるゝことなれば、古ヘのやうに、物を漢文に書べきことにはあらず、便よく正しき方をすてて、正しからず不便なるかたを用るは、いと愚也、上件の子細をわきまへざる人、古書のみな漢文なるを見て、今も物は漢文に書クをよきことと心得たるは、ひがこと也、然るに諸家の記録其外、つねの文書消息文などのたぐひは、なほ後世までも、みな漢文ざまに書クならひにて、これを男もじ男ぶみといひ、いろは仮字をば女もじ、仮字文をば、女ぶみとしもいふなるは、男はおのづからかの古ヘのならひのまゝに為来り、女は便にまかせて、
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『玉勝間』八の巻 かんなまんな仮字をカンナとは云うべし、真字をマンナと云えるは、ひがことなり。仮字は、もとカリナなれば、そのリを音便にンと云いて、カンナとは云うなるを、真字は、マンナと云うべきことわり無し、そはカンナにならいて、ゆくりなく、同じさまにンを添えたる物なり。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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『玉勝間』十一の巻 上つ代にも一種の文字有りけんと云ふ事近きころ或る書に云えるは、理を以てこれを推すに、上古必ず応に一種の文字有るべし、しからずんばその事由りて伝うる莫し。けだし文史の興るは、履中天皇の時に在るか。神武より履中に至るまで、既に数百載を歴たり、その間政治の沿革、上下の譜系、言語歌謡に至るまで、既に繁くかつ多し、いわんや開闢以降、恐らくは口伝の堪うる所に非ず。と云えり。一わたりは誰もみな、然思うべき事なれども、これはつねに文字をつかいならいて、万の事を、それにゆだぬる世の心をもて思うからなり、文字無かりし世は、またさて事は足りて、思いのほかなる物にぞ有りけむ。さればもし上つ代の人に、この説を聞かせたらむには、かえりて笑いぬべきなり。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
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