玉勝間 / 十四の巻 から国の詞つかひ
皇國の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり。たとへば罕言と云ふこと、皇國言にては、稀れに云ふと云ふと、云ふ事まれなりと云ふと、心ばへ異なり。稀れにいふは、言と云ふこと主となりて、罕ながらも云ふ事の有る事なり。云ふことまれなりは、罕と云ふこと主となりて、云ふことの稀れなるなり。他の言も此たぐひ多し。すべての事皆かくの如し。
新字:皇国の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり。たとへば罕言と云ふこと、皇国言にては、稀れに云ふと云ふと、云ふ事まれなりと云ふと、心ばへ異なり。稀れにいふは、言と云ふこと主となりて、罕ながらも云ふ事の有る事なり。云ふことまれなりは、罕と云ふこと主となりて、云ふことの稀れなるなり。他の言も此たぐひ多し。すべての事皆かくの如し。
書き下し
皇国の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり。たとえば罕言と云うこと、皇国言にては、稀れに云うと云うと、云う事まれなりと云うと、心ばえ異なり。稀れにいうは、言と云うこと主となりて、罕ながらも云う事の有る事なり。云うことまれなりは、罕と云うこと主となりて、云うことの稀れなるなり。他の言もこのたぐい多し。すべての事皆かくの如し。
現代語訳
我が国の言葉に比べると、唐(中国)の言葉はたいへん粗いものである。たとえば「罕言」ということは、我が国の言葉では「稀に言う」と言うのと、「言うこと稀なり」と言うのとで、意味合いが異なる。「稀に言う」は、言うということが主となって、まれではあっても言うことがあるということである。「言うこと稀なり」は、まれということが主となって、言うことがまれだということである。ほかの言葉にもこの類いが多い。すべてのことがみなこのようである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』四の巻 世の人かざりにはからるるたとひ皇国と外国とのようを、物にたとえて云わば、皇国の古は、顔よき人の、かたち衣服をもかざらず、ただ在りにて在るが如く、外国は、醜き女の、いみしく髪かおをつくり、びびしき衣服を着かざりたるが如くなるを、遠くて見る時は、まことのかたちの善き悪しきは、わかれずして、ただそのかざりつくろえるかたぞ、まさりて見ゆめるを、世の人、近くよりて、まことの美醜きを見ることを知らず、ただ遠目にのみ見て、外国のかざりをしも、うるわしと思うは、いかにぞや。すべて漢国などは、よろづの事、実は悪しきが故に、それをおおい隠さむとてこそ、さまざまにかざりつくるには有りけれ。
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『玉勝間』十四の巻 から人の語かしこく云ひとれること昔より、世々に、もろこし人の云える、名高き語どもを思うに、ただかしこく物にたとえもし、又ただにても、おかしく云いとれるのみにこそあれ。その心は、学文もせぬ常の人も、心かしこきは、大かた皆もとよりよく心得たる事にて、さしも心に及ばずめずらしき事は無し。されどよく云いとれるがかしこさに、げにさこそは有れと、みな人は感ずるなり。
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『玉勝間』十一の巻 皇国の学者のあやしき癖すべて何事も、おのが国の事にこそ従うべけれ、そを捨てて、他の国の事に従うべきにはあらざるを、かえりて他の国の事に従うを、かしこきわざとして、皇国のことに従うをば、つたなきわざと心得ためるは、皇国の学者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとえば、もろこしの国を、もろこしともからとも云い、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇国の事なるを、然か云うをば拙しとして、中華中国など云うを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくわしく論いたれば、今さらに云わず。また中華中国などは、云うまじき事と、物のこころをわきまえたる人はた、なお漢もしは唐など云うをば、つたなしとや思うらむ、震旦支那など書くたぐいもあなるは、中華中国など云うにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる国より、附けたる名なれば、そもなおおのが国の事を捨てて人の国の事に従うにぞ有りける。もし漢と云い唐とも云わむを、おかしからずと思わば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書かむに、何事かあらむ。かく己が国の事をたてたらむこそは、雄々しき文ならめ。他の国のことにへつらいよりて書かむは、めめしく拙きわざにぞ有りける。
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『玉勝間』十の巻 譬、と云ふものの事ただに云いては、ことゆきがたき心も、万の物のうえに譬えて云えば、ことも無くよく聞ゆる事、多く有るわざなり。さればこの譬えと云う事、神代より有りて、歌にも見え、今の世の人も、常にものすることなり。皇国のみにもあらず、戎の国々にも、古えより有りけるを、もろこし人は、すべて物の譬えをとる事、いと上手にて、言すくなくて、いとよく聞えて、げによく譬えたりとおぼゆる事の多かるを、仏の経どもに、殊に多く見えたるたとえは、多くは物遠くして、よくあたれりとも聞えぬ事をくだくだしく長々と云えるなど、いといと拙なし。仏と云える人の云える事も、かかるものにや。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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