玉勝間 / 十四の巻 米粒を仏法ほさつなど云ひならへる事
穀物をおろそかにすまじき由を云ふ時に、米粒などを、佛法と云ひ、東國にては、菩薩と云ふ。これ大切にして、おろそかにすまじき由なれば、然云ふ心はいと有りがたけれども、佛菩薩より尊き物は無しと心得たる心より然云ふなれば、言はいとひがことなり。神とこそ云ふべけれ。まことに穀はうへも無き尊き物なれば、神とも神と申すべき物なり。
新字:穀物をおろそかにすまじき由を云ふ時に、米粒などを、仏法と云ひ、東国にては、菩薩と云ふ。これ大切にして、おろそかにすまじき由なれば、然云ふ心はいと有りがたけれども、仏菩薩より尊き物は無しと心得たる心より然云ふなれば、言はいとひがことなり。神とこそ云ふべけれ。まことに穀はうへも無き尊き物なれば、神とも神と申すべき物なり。
書き下し
穀物をおろそかにすまじきよしを云う時に、米粒などを、仏法と云い、東国にては、菩薩と云う。これ大切にして、おろそかにすまじきよしなれば、然云う心はいと有りがたけれども、仏菩薩より尊き物は無しと心得たる心より然云うなれば、言はいとひがことなり。神とこそ云うべけれ。まことに穀はうえも無き尊き物なれば、神とも神と申すべき物なり。
現代語訳
穀物を粗末にしてはならないということを言うときに、米粒などを「仏法」と言い、東国では「菩薩」と言う。これは大切にして粗末にしてはならないということなので、そう言う心はたいへんありがたいが、仏や菩薩より尊いものはないと心得ている心からそう言うのだから、言葉としてはたいへん間違っている。「神」とこそ言うべきである。まことに穀物はこの上もなく尊いものなので、神の中の神と申すべきものである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十四の巻 神のめぐみ上は位たかく、一国一郡をもしりて、多くの人を従え、世の人にうやまわれ、万ゆたかに楽しくてすぐし、下は飢えず食い、寒からず着、やすく家居る。これら皆、君のめぐみ、先祖のめぐみ、父母のめぐみなる事はさるものにて、その本をたずぬれば、件の事どもより始め、世に有りとあるもろもろの事、みな神のみたまにあらずと云う事無し。しかれば、世にあらむ人、神を尊まではえあらぬ事なるを、平日になりぬる事は、さしも心にとめず、忘れおるならいにて、君のめぐみ、先祖のめぐみをもさしも思わず。もとより神の御たまなる事は、みな忘れはてて、思いもやらぬは、いといとかしこく有るまじき事なり。一日も、食物無くは如何にせむ。衣物無くは如何にせむ。これを思わば、君のめぐみ、先祖父母のめぐみを常に忘るべきにあらず。然るを世の人、さる事をば知らず思わず、神をばただよそげに思い奉りて、たまたまさしあたりて祈る事などかなわねば、その神をうらみ奉りなどするは、いといとかたじけなき事なり。生まれいずるより死ぬるまで、神の恵みの中に居ながら、いささか心にかなわぬ事ありとても、これをうらみ奉るべき事かは。
-
『玉勝間』九の巻 神をなほざりに思ひ奉る世のならひをかなしむ事世の人の、神をなおざりに思い奉るは、かえすがえすこころ憂きわざなり。さるは程々に、尊み奉らぬにしもあらざんめれど、ただ世のならいの、人なみなみの、かいなでの尊みのみこそ有れ、まことに心にしめて尊み奉るべき事を、思いわきまえず、ただおろそかにぞ思いたんめる。目にこそ見えね、この天地万の物の、出で来始めしも、又むかし今の、世の中の大き小さきもろもろの事も、人の身のうえ、食い物、着物、居どころ、なにくれ、もろもろの事もことごとく神の御めぐみにかからざる事は無きを、さるゆえよしをば忘れ果てて、なべての人、ただまがつひのまが事にのみまじこり、心をかたむけて、万にさかしだつ人はたからぶみごころを、心とはして稀れ稀れに神代の御事どもを聞きても、ただはるけき世界の、昔語りを聞くがごと、よそげにのみ思い過ごして、そは皆今の世の中、おのが身々の上にかかれる、本なる事を思いたどらず。万よりもかなしきは、神の社神事の衰えなるを、かばかりめでたき御代にしも、もろもろの古き神の御社どもの、いみじく衰えませるを、なおしたて奉らんの心ざし有る人の、世に出でこぬこそ、いともいとも口惜しけれ。
-
『玉勝間』六の巻 神今食神今食は、じんこんじきと、字音にのみ唱え来たりて、正しくはいかに唱うべきにか、昔よりさだも無く、知れる人無し。書紀の私記に、古は神今木と謂いしよし見えたるによりて、じんこんけとも唱うれども、上二字はなおもじごえなり。これによりてつらつらこの名を考うるに、加牟伊麻気と唱うべきなり。そは神は、神嘗祭などの神に同じく、今は新の意なり。すべて新たに物したるを、今某と云うこと多し。古、漢の国より新たに参来つる人どもを、今来の漢人と云いて、書紀に新漢と見え、大かたもあらたに参れる人を、今参りと云う類なり。さて今食と云うは、俗言に、稲を粟にてたくわえ置きたるを、新たに磨りて、米にしたるを、今ずりと云う。その意にて、新磨の御食と云う事なるべし。古に今毛人と云う人の名の見えたるも、今食と云う事の有りしによれる名なるべし。かくてこの神今食は、年毎の六月と十二月との十一日にて、月次祭の同じ日の夜に行わるる事なり。まずその月次祭は、三百四座の神たちに、幣帛を奉り給う。
-
『玉勝間』十四の巻 世の人まことの道に心つかざる事天の下大かた、件の如くなれば、ただいずこもいずこも、仏寺のみ栄えて、神社はいたく衰えまして、その衰えを憂うる人も無く、神はただ、病その外の祈り事にのみ用いられて、この道もただ、世の中の外の無用の物の如く、ただ古えより有り来たれる事として、ひたぶるに廃られぬと云うのみなり。この道は、これ天下を治め、国を治むる、先務要道なることを知れる人は、われいまだ、夢にも見きかず。いともいとも悲しき事ならずや。
-
『玉勝間』十四の巻 神のめぐみ又祈る事きき給わねば、神は尊みてやく無き物のごと思いなどするは、いかにぞや。かえすがえすも万の事、ことごとく神のみたまなる事を、平日に忘るる事なくは、おのずから神の尊まではかなわぬ事を知るべし、たとえば百両の金ほしき時に、人の九十九両あたえて、一両足らざるが如し。その与えたる人をば悦ぶべきか、恨むべきか。祈る事かなわねばとて、神をよう無き物にうらみ奉るは、九十九両与えたらむ人を、よう無きものに思いて恨むるが如し。九十九両のめぐみを忘れて、今一両あたえざるを恨むるは如何に。
-
『玉勝間』四の巻 仏の前のもり物のたとへ寺々の仏のまえに、盛物とて、立て並ぶる物あり。みじかき柱のようしたる物に、金銀五色の紙をおして、つつみ色どりたるを立てて、まんじゅうあるいは落雁など云うなる、造菓子を、衣の紋のように押しつけて、いただきにも、ことごとしき作り花などを挿したり。この物のさまを見るに、その色どりかざりも、菓子も、ただ人のもうでて見る方にのみ有りて、仏の方に向きたる所には、かざりも無く、くだ物をもつけざるは、すべてただ、詣る人の見る目をかざれるのみにて、仏にうるわしくして奉らむとの為わざには有らざりけり。その中にも甚しきは、菓子もまことのには有らで、土あるいは木などして作りたるさえ有るぞかし。されどこれは、さしも論うにも足らぬ、はかなき事なるを、漢国の万の事の、うるわしきようなるも、もはらこの仏の前の盛り物の如くにて、まことの事にはあらず。ただ世の人に尊ませむための、色どりかざりなるを、文質彬彬など云いて、たけき事に思い云うこそ、いとおこなれ。皇国の古は、たとえば清らかなる白木の折敷に、檜・杉の葉などを折りしきて、新しき物をそなえたらむが如し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る