玉勝間 / 十四の巻 漢籍の説と皇国の古伝説とのたとへ
漢ぶみの說は、まのあたり近き山を見るが如く、皇國の上代の傳說は、十里廿里もかさなりたる、遠き山を見るがごとし。漢ぶみの說は、人情にかなひて、みな尤と思はるる事なり。皇國の上代神代などの故事は、何の味も無く、唯だ淺はかに聞ゆるは、凡人の思ひはかる智の及ぶかぎりとは、はるかに遠きゆゑ、その理の聞えず、唯だ淺はかに聞ゆるなり。これかの遠き山は、唯だほのかに山と見ゆるのみにて、その景色も何も見えず、見どころ無きが如し。これ景色無きにあらず、人の目力の及ばぬ故なり。又漢籍の理ふかく尤に聞ゆるは、人の云へる說にて、人の情に近きなり。是れかの近き山は、景色よく見えわかれて、おもしろき見所あるが如し。
新字:漢ぶみの説は、まのあたり近き山を見るが如く、皇国の上代の伝説は、十里廿里もかさなりたる、遠き山を見るがごとし。漢ぶみの説は、人情にかなひて、みな尤と思はるる事なり。皇国の上代神代などの故事は、何の味も無く、唯だ浅はかに聞ゆるは、凡人の思ひはかる智の及ぶかぎりとは、はるかに遠きゆゑ、その理の聞えず、唯だ浅はかに聞ゆるなり。これかの遠き山は、唯だほのかに山と見ゆるのみにて、その景色も何も見えず、見どころ無きが如し。これ景色無きにあらず、人の目力の及ばぬ故なり。又漢籍の理ふかく尤に聞ゆるは、人の云へる説にて、人の情に近きなり。是れかの近き山は、景色よく見えわかれて、おもしろき見所あるが如し。
書き下し
漢ぶみの説は、まのあたり近き山を見るが如く、皇国の上代の伝説は、十里二十里もかさなりたる、遠き山を見るがごとし。漢ぶみの説は、人情にかないて、みな尤もと思わるる事なり。皇国の上代神代などの故事は、何の味も無く、ただ浅はかに聞こゆるは、凡人の思いはかる智の及ぶかぎりとは、はるかに遠きゆえ、その理の聞こえず、ただ浅はかに聞こゆるなり。これかの遠き山は、ただほのかに山と見ゆるのみにて、その景色も何も見えず、見どころ無きが如し。これ景色無きにあらず、人の目力の及ばぬ故なり。又漢籍の理ふかく尤もに聞こゆるは、人の云える説にて、人の情に近きなり。これかの近き山は、景色よく見えわかれて、おもしろき見所あるが如し。
現代語訳
漢籍の説は、目の前の近い山を見るようなものであり、我が国の上代の伝えは、十里二十里も重なった遠い山を見るようなものである。漢籍の説は人情にかなって、みなもっともだと思われることである。我が国の上代・神代などの故事が、何の味わいもなく、ただ浅はかに聞こえるのは、普通の人の推し量る知恵の及ぶ限りとは、はるかに遠いために、その道理が分からず、ただ浅はかに聞こえるのである。これはあの遠い山が、ただほのかに山と見えるだけで、その景色も何も見えず、見所がないようなものである。これは景色がないのではなく、人の目の力が及ばないためである。また漢籍の道理が深くもっともに聞こえるのは、人の言った説であって、人の情に近いからである。これはあの近い山が、景色がよく見分けられて、面白い見所があるようなものである。
解説
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめからぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有りて、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、ついに作り得ることあたわざるがごとくなるを、神代の伝えごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。このふたつを思いわたして、神世の事どもの、うわべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理のそなわりたんめる事を、さとりねかしとぞ。
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめ上の三件につきて、又おかしきさとし説をぞ思いえたる。そはすべてから書の、万ずにかしこく、ことわり深く聞ゆるにくらべては、神代の伝説どもの、はかなく愚かに聞こゆるけじめを、一つちかき事につきて、さとさむとするなり。たとえば、今この人と云う物を一人、作り出でんとせむに、いかにかしこくさとり深く、たくみなる人の、いかに心をくだきて、例の陰陽和合のことわりを極め、ここらの年月をいたずきて、作り成さむとすとも、かく活きはたらくまことの人をば、つくり得る事あたわじを、上に云えるように、ただかのおとこ女の閨の内のみそかわざによりては、心をも入れず、小刀の一つだにつかわず、何の労も無くて、成り出ずるぞかし。さるはその閨のうちのしわざよ、何のかしこくうるわしく、理深げなる事かは有る。そのありさまは、穂にいだしてまねぶべくも有らず、いともいともひとわろく、めめしく、童べのたわぶれにもおとりて、はかなく愚かなるしわざなれども、これによりてこそ、人のたくみにてはえ作らぬ、まことの人の、さばかりたやすく成り出ずるなれ。神の御しわざは、世にはかりがたく、あやしくたえなる物ならずや。
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『玉勝間』二の巻 神典のときざま中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
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『玉勝間』五の巻 熊沢氏が神典を論へる事すべて世の中のことわりは、限り無きものにて、さらに人の短かき智もて、知りつくすべきわざに有らざれば、神代の事あやしとて、凡人のいかでかはたやすくはかり云わん。筆者道徳の学無かりし故に、寓言のしざままで愚かなりとは、その事どもの、なにのいたり深きことわりも無く、ただいと浅はかに聞ゆるを云うなるべし。そは猶思いはかりの、くわしからざる事なりかし。古今集の歌にも、そこいなき淵やは騒ぐ、と詠めるごとく、すぐれて深き事は、かえりてうわべには、何の深きことわりも見えぬものにて、その理深げに見え聞えたる事は、かの山川の浅瀬の浪のさわぐにて、まことには、さしも深からぬにこそあれ。底いなき淵のさわがぬことわりまでを、今すこし深く思わざるは、いかにぞや。昔神代の御ふみをしるせりし人、たとい、いわゆる道徳の学問は無くとも、寓言をも作るばかりのざえ有らんには、いささかにても、必ず山川の浪の玉ちる、岩瀬のけしきをも、などかは作り成す事を得ざらむ。見どころも無き淵にては、やむべきに有らざるをや。
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