玉勝間 / 二の巻 神典のときざま
中昔よりこなた、神典を說人ども、古の意言をばたつねむ物とも思ひたらず、唯だひたぶるに、外國の儒佛の意にすがりて、其理をのみ思ひさだして、萬葉を見ず、むげに古への意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古への旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古、のむねはことごとくうづもれて顯れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの說どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云はざる事どもなる故に、世の學者、とりどりにとがむる事おほし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて說たる說をのみ聞なれて、みづからも同じく、いまだからごころのくせの〓く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云ふおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の傳說のままなり。世の人人の云ふは、皆そのまどひ居る漢意に說曲たるわたくし事にて、いたく古ノ傳、說と異なり。此けぢめは、古事記書紀をよく見ば、おのづから分るべき物をや。もしおのが說をとがめむとならば、まづ古事記書紀をとがむべし。此御典どもを信ぜんかぎりは、おのが說をとがむる事えじ。
新字:中昔よりこなた、神典を説人ども、古の意言をばたつねむ物とも思ひたらず、唯だひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、其理をのみ思ひさだして、万葉を見ず、むげに古への意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古への旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古、のむねはことごとくうづもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云はざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おほし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説たる説をのみ聞なれて、みづからも同じく、いまだからごころのくせの〓く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云ふおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云ふは、皆そのまどひ居る漢意に説曲たるわたくし事にて、いたく古ノ伝、説と異なり。此けぢめは、古事記書紀をよく見ば、おのづから分るべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まづ古事記書紀をとがむべし。此御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
書き下し
中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
現代語訳
中古からこのかた、神典を説く人々は、古の心と言葉を尋ねようとも思わず、ただひたすら外国の儒教・仏教の考えにすがって、その理屈ばかりをあれこれ論じ、万葉集を見ず、古の心と言葉をまったく知らないので、あの漢意の理屈とは別に古の趣旨があって、それが明らかであることを知ることができない。このために古の趣旨はことごとく埋もれて現れず、神の御書もみな漢意の解釈になって、道が明らかでないのである。こうして私が神の御書を解く趣は、世間普通の説とはたいへん異なり、代々の人がまだ言わなかった事柄なので、世の学者があれこれと咎めることが多い。しかしそれはただ、先人たちがひたすら漢意にすがって説いた説ばかりを聞き慣れて、自分も同じく、まだ漢意の癖がきれいに抜けていないから、その悪さを悟れないのである。私の言う趣旨は、ことごとく古事記・日本書紀に記された古の伝えのままである。世の人々の言うことは、みなその惑っている漢意で説き曲げた私事であって、古の伝えとはひどく異なる。この違いは、古事記・日本書紀をよく見れば、おのずと分かるはずのものである。もし私の説を咎めようというのなら、まず古事記・日本書紀を咎めるべきである。この御典を信じる限りは、私の説を咎めることはできまい。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさま神の御典を説く事、むかしは紀伝道の儒者の職にて、その説ける書、弘仁より代代の、日本紀私記これなり。そはいずれも、ただ漢学の余力をもて考えたるのみにして、神の御典をもはら学びたるものに有らざるが故に、古の意詞にくらく、すべてういういしく浅はかにて、もとより道の旨趣も、いかなるさまとも、説きたる事無く、唯だ文によりて、有るべきままに云えるばかりなり。然れども皇朝の昔の儒者は、すべてから国のように、己が殊にたてたる心は無かりし故に、神の御ふみを説くとても、漢意に説きまげたる、私説もおさおさ見えず、儒意によれる強説も無くて、やすらかには有りしを、後の世に至りては、殊に神学と云う一ながれ出来て、もはらにするともがらし有れば、つぎつぎに委しくはなりもて行けど、なべての世の物知り人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみを説く者も、さかしらを先にたてて、文のままには物せず、おのが好むすじに引きつけて、或るは仏意、或るは儒意に、説き曲ぐる事となれり。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
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うひ山ぶみ・注[ニ]主(ムネ)としてよるべきすぢは幸とも幸なれば、いかにも此たふとき皇国の道を学ぶべきは、勿論のこと也此道は、古事記書紀の二典に記されたる云々、道は此二典にしるされたる、神代のもろもろの事跡のうへに備はりたれども、儒仏などの書のやうに、其道のさまを、かやうかやうと、さして教へたることなければ、かの儒仏の書の目うつしにこれを見ては、道の趣、いかなるものともしりがたく、とらへどころなきが如くなる故に、むかしより世々の物しり人ども、これをえとらへず、さとらずして、或は仏道の意により、或は儒道の意にすがりて、これを説たり、其内昔の説は、多く仏道によりたりしを、百五六十年以来は、かの仏道によれる説の、非なることをばさとりて、其仏道の意をば、よくのぞきぬれども、その輩の説は、又皆儒道の意に落入て、近世の神学者流みな然也、其中にも流々有て、すこしづゝのかはりはあれども、大抵みな同じやうなる物にて、神代紀をはじめ、もろもろの神典のとりさばき、たゞ陰陽八卦五行など、すべてからめきたるさだのみにして、
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめからぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有りて、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、ついに作り得ることあたわざるがごとくなるを、神代の伝えごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。このふたつを思いわたして、神世の事どもの、うわべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理のそなわりたんめる事を、さとりねかしとぞ。
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うひ山ぶみ・注[ト]第一に漢意儒意をたとへばものゝふの、戦場におもむくに、まづ具足をよくし、身をかためて立出るがごとし、もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず、素膚にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝろに落入べし、道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし、まづ神典は、旧事紀古事記日本紀を、昔より、三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也、然るに近き世に至りてやうやう、旧事紀は真の書にあらず、後の人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさをさこれを用る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多くなれる、これ全く吾師ノ大人の教ヘによりて、学問の道大にひらけたるが故也、まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、たゞ古ヘよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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