玉勝間 / 五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめ
からぶみの說は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有て、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、つひに作り得ることあたはざるが如くなるを、神代の傳へごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。此ふたつを思ひわたして、神世の事どもの、うはべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理りのそなはりたンめる事を、さとりねかしとぞ。
新字:からぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有て、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、つひに作り得ることあたはざるが如くなるを、神代の伝へごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。此ふたつを思ひわたして、神世の事どもの、うはべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理りのそなはりたンめる事を、さとりねかしとぞ。
書き下し
からぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有りて、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、ついに作り得ることあたわざるがごとくなるを、神代の伝えごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。このふたつを思いわたして、神世の事どもの、うわべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理のそなわりたんめる事を、さとりねかしとぞ。
現代語訳
漢籍の説は、とても賢そうには聞こえるが、人の悟りには限りがあるので及ばないところがあり、あの人の技で人を作ろうとしても、ついに作ることができないのと同じようなものである。一方、神代の伝えごとは、あの寝所の中の営みが、見た目はたわいなく愚かであっても、よく人を造り出すのと同じではないか。この二つを考え合わせて、神代の事柄が、表面は何の道理もありそうになく、たわいなく愚かに聞こえるけれども、本当は人の知恵の及びがたく推し量りがたい、深い道理が備わっているらしいことを、悟ってほしいというのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめ上の三件につきて、又おかしきさとし説をぞ思いえたる。そはすべてから書の、万ずにかしこく、ことわり深く聞ゆるにくらべては、神代の伝説どもの、はかなく愚かに聞こゆるけじめを、一つちかき事につきて、さとさむとするなり。たとえば、今この人と云う物を一人、作り出でんとせむに、いかにかしこくさとり深く、たくみなる人の、いかに心をくだきて、例の陰陽和合のことわりを極め、ここらの年月をいたずきて、作り成さむとすとも、かく活きはたらくまことの人をば、つくり得る事あたわじを、上に云えるように、ただかのおとこ女の閨の内のみそかわざによりては、心をも入れず、小刀の一つだにつかわず、何の労も無くて、成り出ずるぞかし。さるはその閨のうちのしわざよ、何のかしこくうるわしく、理深げなる事かは有る。そのありさまは、穂にいだしてまねぶべくも有らず、いともいともひとわろく、めめしく、童べのたわぶれにもおとりて、はかなく愚かなるしわざなれども、これによりてこそ、人のたくみにてはえ作らぬ、まことの人の、さばかりたやすく成り出ずるなれ。神の御しわざは、世にはかりがたく、あやしくたえなる物ならずや。
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『玉勝間』十四の巻 漢籍の説と皇国の古伝説とのたとへ漢ぶみの説は、まのあたり近き山を見るが如く、皇国の上代の伝説は、十里二十里もかさなりたる、遠き山を見るがごとし。漢ぶみの説は、人情にかないて、みな尤もと思わるる事なり。皇国の上代神代などの故事は、何の味も無く、ただ浅はかに聞こゆるは、凡人の思いはかる智の及ぶかぎりとは、はるかに遠きゆえ、その理の聞こえず、ただ浅はかに聞こゆるなり。これかの遠き山は、ただほのかに山と見ゆるのみにて、その景色も何も見えず、見どころ無きが如し。これ景色無きにあらず、人の目力の及ばぬ故なり。又漢籍の理ふかく尤もに聞こゆるは、人の云える説にて、人の情に近きなり。これかの近き山は、景色よく見えわかれて、おもしろき見所あるが如し。
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『玉勝間』五の巻 熊沢氏が神典を論へる事すべて世の中のことわりは、限り無きものにて、さらに人の短かき智もて、知りつくすべきわざに有らざれば、神代の事あやしとて、凡人のいかでかはたやすくはかり云わん。筆者道徳の学無かりし故に、寓言のしざままで愚かなりとは、その事どもの、なにのいたり深きことわりも無く、ただいと浅はかに聞ゆるを云うなるべし。そは猶思いはかりの、くわしからざる事なりかし。古今集の歌にも、そこいなき淵やは騒ぐ、と詠めるごとく、すぐれて深き事は、かえりてうわべには、何の深きことわりも見えぬものにて、その理深げに見え聞えたる事は、かの山川の浅瀬の浪のさわぐにて、まことには、さしも深からぬにこそあれ。底いなき淵のさわがぬことわりまでを、今すこし深く思わざるは、いかにぞや。昔神代の御ふみをしるせりし人、たとい、いわゆる道徳の学問は無くとも、寓言をも作るばかりのざえ有らんには、いささかにても、必ず山川の浪の玉ちる、岩瀬のけしきをも、などかは作り成す事を得ざらむ。見どころも無き淵にては、やむべきに有らざるをや。
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『玉勝間』五の巻 熊沢氏が神典を論へる事熊沢氏が三輪物語と云う物に云いけるは、神書は、昔の伝えをそのまま書かで、はるばる後の世に、寓言して書きたり。その筆者に、道徳の学無かりし故に、寓言のしようまで悪しし。せめて寓言すとも、荘周などのように、理を明らかにしたらば、善かるべし。神聖の御事を、凡人の上にてかりとき、寓言したれば、大かたにては通じがたし、と云えり。宣長今これをあげつらわむ。まず神の御典を、いわゆる寓言なりと見たるは、めずらしくもあらぬ、例の儒者意なり。すべて儒者は、世の中にあやしき事は無きことわりぞと、片おちに思いとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり。儒者のみにも有らず、から心ののぞこらぬ、近き世の神学者と云う者はた、皆同じ事ぞ。そもそもあやしき事をば、まこと、そらごとを問わず、すべて信ぜぬは、一わたりは賢きようなれど、なかなかのさかしらにて、人の智はかぎり有りて、及ばぬ所多き事を、えさとらで、よろずの理を、おのがさとりもて、ことごとく知りつくすべき物と思える、からごころのひが事なり。
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『玉勝間』二の巻 神典のときざま中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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