玉勝間 / 十四の巻 板坂ト斎物語
板坂ト齋物語と云ふものにいはく、九月朔、(慶長五年)西丸御隱居、曲輪え御出候、石川日向守家成、今日は西ふさがり惡日に候、御合戰の御首途如何と申上候へば、西を治部少ふさげ候間、今日あけに參候と御意、其晩神奈川、二日藤澤、三日小田原云云と云へり。これは關が原の御出陣の事なり。此書は、板坂ト齋宗商と云ふ人、東照神祖君に仕奉りて、明暮御前にさふらひて、見聞たる事どもを、日記のやうにしるせる書なり。ト齋が後は、今もなほ板坂ト齋と云ひて、わが紀の殿人にて有るなり。
新字:板坂ト斎物語と云ふものにいはく、九月朔、(慶長五年)西丸御隠居、曲輪え御出候、石川日向守家成、今日は西ふさがり悪日に候、御合戦の御首途如何と申上候へば、西を治部少ふさげ候間、今日あけに参候と御意、其晩神奈川、二日藤沢、三日小田原云云と云へり。これは関が原の御出陣の事なり。此書は、板坂ト斎宗商と云ふ人、東照神祖君に仕奉りて、明暮御前にさふらひて、見聞たる事どもを、日記のやうにしるせる書なり。ト斎が後は、今もなほ板坂ト斎と云ひて、わが紀の殿人にて有るなり。
書き下し
板坂卜斎物語と云うものにいわく、九月朔、(慶長五年)西の丸御隠居、曲輪え御出で候、石川日向守家成、今日は西ふさがり悪日に候、御合戦の御首途如何と申し上げ候えば、西を治部少ふさげ候間、今日あけに参り候と御意、その晩神奈川、二日藤沢、三日小田原云云と云えり。これは関が原の御出陣の事なり。この書は、板坂卜斎宗商と云う人、東照神祖君に仕え奉りて、明け暮れ御前にさぶらいて、見聞きたる事どもを、日記のようにしるせる書なり。卜斎が後は、今もなお板坂卜斎と云いて、わが紀の殿人にて有るなり。
現代語訳
『板坂卜斎物語』というものに言うには、「九月朔日(慶長五年)、西の丸の御隠居(家康)が曲輪へお出ましになった。石川日向守家成が、『今日は西の方角がふさがる悪日でござる。ご合戦へのご出発はいかがなものでしょう』と申し上げたところ、『西は治部少輔(石田三成)がふさいでいるので、今日それを開けに参るのだ』と仰せになった。その晩は神奈川、二日は藤沢、三日は小田原(中略)」と言っている。これは関ヶ原へのご出陣のことである。この書は、板坂卜斎宗商という人が、東照神祖君(徳川家康)にお仕え申し上げて、朝夕御前に控えて見聞きしたことを、日記のように記した書である。卜斎の子孫は、今もなお板坂卜斎と名乗って、我が紀州の殿の家臣でいるのである。
解説
関連する章句
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