名将言行録 / 『名将言行録』直江兼續 好機の追撃を退ける景勝
○此役東下の諸將上方兵起りしを聞て、追々小山を發して馳上る。井伊直政、本多忠勝を始め、上杉との合戰は中々手強く思ひ、皆一代の大事とありし所に、上方出陣に究まりければ、上下色を直し喜ぶ者多かりけり。其頃兼續歩騎三萬餘にて、下野鹽原に陣取て居たりしが、內府江戸に引取ると聞て、只一騎にて本陣長沼へ馳付け、景勝に向ひ石田三成旗を擧げ伏見城へ取掛る故に畿內、中國は申すに及ばず、南海、西海の大小名悉く蜂起せしこと、是天の授くる所なり、昨日內府小山に怺へ兼ね、江戸を指して逃入りしに付、今度供して小山まで下りし、大小名妻子を三成に取られたるに驚き、悉く內府を捨て我先にと逃げ上り候。何れも長途に疲れたる上、上方の大亂を聞き、敵を東西に引受け、肝魂も有間敷候、內府さへ小山より逃げ歸らるゝこと、天の時至りぬ。此機に乘じて御馬を出され追掛け給はゞ、江戸へ馳入り給ふべし。佐竹右京大夫義宣、相馬長門守義胤が兵、東方より江戸へ取掛け、三成は大軍を引率し東海、山道を攻め降り、眞田安房守昌幸、同左衞門佐幸村は、甲斐、信濃の兵を率る八王寺口より搦手に押寄せ、南北手を合はせ立挾み攻むるものならば、勝んこと目前なり、天下の一擧此時に過ぎず。一時も早く御出馬然るべしと申す。景勝頭を掉り、太閤御他界の前、御前へ召出され身を終るまで逆心仕るべからざるの旨、起請文を書、內府及び、利家、輝元、秀家も、共に血判す。其誓紙太閤御棺中に納めしこと、天下の人悉く知る所なり。此度の儀は堀直政が譏言にて、內府より仕掛るに寄り、一合戰と支度したりき。然るに內府此方へ構はず江戸へ引取らるれば、此方も又會津へ引取るべきこと理の當然なり。若し今奧州を打立內府を追掛けば始めよりの申分皆僞となり、天下首惡の名を末代に蒙り、信を天下に失はんこと、上杉家の恥辱なり、必ず內府を追ふこと勿れと言ふ。
新字:○此役東下の諸将上方兵起りしを聞て、追々小山を発して馳上る。井伊直政、本多忠勝を始め、上杉との合戦は中々手強く思ひ、皆一代の大事とありし所に、上方出陣に究まりければ、上下色を直し喜ぶ者多かりけり。其頃兼続歩騎三万余にて、下野塩原に陣取て居たりしが、内府江戸に引取ると聞て、只一騎にて本陣長沼へ馳付け、景勝に向ひ石田三成旗を挙げ伏見城へ取掛る故に畿内、中国は申すに及ばず、南海、西海の大小名悉く蜂起せしこと、是天の授くる所なり、昨日内府小山に怺へ兼ね、江戸を指して逃入りしに付、今度供して小山まで下りし、大小名妻子を三成に取られたるに驚き、悉く内府を捨て我先にと逃げ上り候。何れも長途に疲れたる上、上方の大乱を聞き、敵を東西に引受け、肝魂も有間敷候、内府さへ小山より逃げ帰らるゝこと、天の時至りぬ。此機に乗じて御馬を出され追掛け給はゞ、江戸へ馳入り給ふべし。佐竹右京大夫義宣、相馬長門守義胤が兵、東方より江戸へ取掛け、三成は大軍を引率し東海、山道を攻め降り、真田安房守昌幸、同左衛門佐幸村は、甲斐、信濃の兵を率る八王寺口より搦手に押寄せ、南北手を合はせ立挟み攻むるものならば、勝んこと目前なり、天下の一挙此時に過ぎず。一時も早く御出馬然るべしと申す。景勝頭を掉り、太閤御他界の前、御前へ召出され身を終るまで逆心仕るべからざるの旨、起請文を書、内府及び、利家、輝元、秀家も、共に血判す。其誓紙太閤御棺中に納めしこと、天下の人悉く知る所なり。此度の儀は堀直政が譏言にて、内府より仕掛るに寄り、一合戦と支度したりき。然るに内府此方へ構はず江戸へ引取らるれば、此方も又会津へ引取るべきこと理の当然なり。若し今奥州を打立内府を追掛けば始めよりの申分皆偽となり、天下首悪の名を末代に蒙り、信を天下に失はんこと、上杉家の恥辱なり、必ず内府を追ふこと勿れと言ふ。
書き下し
○此役東下の諸將上方兵起りしを聞て、追々小山を發して馳上る。井伊直政、本多忠勝を始め、上杉との合戰は中々手強く思ひ、皆一代の大事とありし所に、上方出陣に究まりければ、上下色を直し喜ぶ者多かりけり。其頃兼續歩騎三萬餘にて、下野鹽原に陣取て居たりしが、內府江戸に引取ると聞て、只一騎にて本陣長沼へ馳付け、景勝に向ひ石田三成旗を擧げ伏見城へ取掛る故に畿內、中國は申すに及ばず、南海、西海の大小名悉く蜂起せしこと、是天の授くる所なり、昨日內府小山に怺へ兼ね、江戸を指して逃入りしに付、今度供して小山まで下りし、大小名妻子を三成に取られたるに驚き、悉く內府を捨て我先にと逃げ上り候。何れも長途に疲れたる上、上方の大亂を聞き、敵を東西に引受け、肝魂も有間敷候、內府さへ小山より逃げ歸らるゝこと、天の時至りぬ。此機に乘じて御馬を出され追掛け給はゞ、江戸へ馳入り給ふべし。佐竹右京大夫義宣、相馬長門守義胤が兵、東方より江戸へ取掛け、三成は大軍を引率し東海、山道を攻め降り、眞田安房守昌幸、同左衞門佐幸村は、甲斐、信濃の兵を率る八王寺口より搦手に押寄せ、南北手を合はせ立挾み攻むるものならば、勝んこと目前なり、天下の一擧此時に過ぎず。一時も早く御出馬然るべしと申す。景勝頭を掉り、太閤御他界の前、御前へ召出され身を終るまで逆心仕るべからざるの旨、起請文を書、內府及び、利家、輝元、秀家も、共に血判す。其誓紙太閤御棺中に納めしこと、天下の人悉く知る所なり。此度の儀は堀直政が譏言にて、內府より仕掛るに寄り、一合戰と支度したりき。然るに內府此方へ構はず江戸へ引取らるれば、此方も又會津へ引取るべきこと理の當然なり。若し今奧州を打立內府を追掛けば始めよりの申分皆僞となり、天下首惡の名を末代に蒙り、信を天下に失はんこと、上杉家の恥辱なり、必ず內府を追ふこと勿れと言ふ。
現代語訳
この戦役で東下していた諸将は、上方で兵が起こったと聞き、続々と小山を発って馳せ上った。井伊直政、本多忠勝をはじめ、上杉との合戦はなかなか手ごわく、みな一代の大事と思っていたところ、上方出陣に決まったので、上下とも顔色を直して喜ぶ者が多かった。そのころ兼続は歩騎三万余で下野塩原に陣を取っていたが、内府が江戸に引き取ると聞き、ただ一騎で本陣の長沼に馳せ付け、景勝に向かって言った。「石田三成が旗を挙げ伏見城に取りかかったので、畿内、中国は言うに及ばず、南海、西海の大小名がことごとく蜂起しました。これは天の授けるところです。昨日、内府は小山で持ちこたえかね、江戸を指して逃げ入りました。今度供して小山まで下ってきた大小名は、妻子を三成に取られたことに驚き、ことごとく内府を捨てて我先にと逃げ上りました。いずれも長途に疲れた上、上方の大乱を聞き、敵を東西に引き受けて、肝魂もないでしょう。内府でさえ小山から逃げ帰られるのは、天の時が至ったのです。この機に乗じて馬を出して追いかけなされば、江戸へ馳せ入ることができます。佐竹右京大夫義宣、相馬長門守義胤の兵が東方から江戸へ取りかかり、三成は大軍を率いて東海道・山道を攻め下り、真田安房守昌幸、同左衛門佐幸村は甲斐、信濃の兵を率いて八王子口から搦め手に押し寄せ、南北が手を合わせて挟み攻めれば、勝つことは目前です。天下の一挙はこの時に過ぎません。一時も早くご出馬あるべきです」と申した。景勝は頭を振り、「太閤がご他界の前、御前に召し出され、身を終えるまで逆心すべからずとの旨の起請文を書き、内府および利家、輝元、秀家もともに血判した。その誓紙を太閤の御棺の中に納めたことは、天下の人がことごとく知るところだ。このたびの件は堀直政の讒言によるもので、内府の方から仕掛けるので、一合戦と支度したのだ。ところが内府がこちらにかまわず江戸へ引き取られるなら、こちらも会津へ引き取るのが道理である。もし今奥州を発って内府を追いかければ、初めからの申し分はすべて偽りとなり、天下の首悪の名を末代に被り、信を天下に失うことになる。それは上杉家の恥辱だ。必ず内府を追ってはならない」と言った。
解説

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