名将言行録 / 『名将言行録』大谷吉隆 家康の会津征伐への読み
○慶長五年六月十一日、家康、諸將を會し、會津の攻口を定めし時に、山内一豐、吉隆と共に退きけるが、途にして一豐、吉隆に問て曰く、今度會津征伐のこと、來春にも發向ありて然るべしと諫めけれども、內府、聽かず、如何なる遠慮ならんと。吉隆我察するに、甚だ深慮あるべし、第一は國に亂臣ある時、速かに兵を發するは、敵軍の未だ守備整はざるを伐つこと、兵法にあり。是一つなり。又發軍遲緩なる時は、城郭經營成て、兵士多く集まり、糧米も多く貯ふべし、然らば自から征伐に日を送る、況や一年を越ゆるをや、是二つ、又連書の中に、景勝と親友多し、彼輩謀を設け、辭を巧にし、發陣を遲緩ならしめ、守備を整んと欲するもあらんと察せらるゝことなれば諫めを妄りに用ひられず、是三つ、景勝一人の計策にあるべからず、定めて與力を勸め賴まん、然れば遲緩に及ばゞ、與力の輩を增益すべし、今其微勢なるに乘じて、征伐ありて、景勝亡びなば、與力の輩は、自から靡まらんの思慮ならん、是四つ。又諸將を集め軍議あらば、其中に景勝の與力の輩あらば、征伐を速かにするを止むべし、然らずとも形狀を伺はば、顏色にも顯はるべきなれば、夫等を察し、計策、或は指揮にも思慮あらん爲めならん、是五つ。是の五つの遠慮を以て、諸將に思慮を包まず告ぐべしとは、命ありしと見えたりと言ふ。一豐、又問ふ、堀直政が險阻のことを言ひしを、內府叱られたるは、如何なる故ぞ。吉隆、背炙は無雙の險阻なり、一夫刀を橫たふれば、萬卒も通ること能はざるは、將卒共に傳聞する所なり、依て上下心を惱まし、危ぶみ恐る、彼國の地利を熟したる直政も、甚だ攻難き所なりと告ぐるに依て、諸將各氣を屈し、其色旣に面に顯はれり、內府之を見て、險阻と雖も、險とするに足らざるの理を盡して、直政を叱りたる故、諸將初めて心を安んず、內府は軍慮の知識なりと、太閤の歎美ありしも是事なり、と言て感心せり。
新字:○慶長五年六月十一日、家康、諸将を会し、会津の攻口を定めし時に、山内一豊、吉隆と共に退きけるが、途にして一豊、吉隆に問て曰く、今度会津征伐のこと、来春にも発向ありて然るべしと諫めけれども、内府、聴かず、如何なる遠慮ならんと。吉隆我察するに、甚だ深慮あるべし、第一は国に乱臣ある時、速かに兵を発するは、敵軍の未だ守備整はざるを伐つこと、兵法にあり。是一つなり。又発軍遅緩なる時は、城郭経営成て、兵士多く集まり、糧米も多く貯ふべし、然らば自から征伐に日を送る、況や一年を越ゆるをや、是二つ、又連書の中に、景勝と親友多し、彼輩謀を設け、辞を巧にし、発陣を遅緩ならしめ、守備を整んと欲するもあらんと察せらるゝことなれば諫めを妄りに用ひられず、是三つ、景勝一人の計策にあるべからず、定めて与力を勧め頼まん、然れば遅緩に及ばゞ、与力の輩を增益すべし、今其微勢なるに乗じて、征伐ありて、景勝亡びなば、与力の輩は、自から靡まらんの思慮ならん、是四つ。又諸将を集め軍議あらば、其中に景勝の与力の輩あらば、征伐を速かにするを止むべし、然らずとも形状を伺はば、顔色にも顕はるべきなれば、夫等を察し、計策、或は指揮にも思慮あらん為めならん、是五つ。是の五つの遠慮を以て、諸将に思慮を包まず告ぐべしとは、命ありしと見えたりと言ふ。一豊、又問ふ、堀直政が険阻のことを言ひしを、内府叱られたるは、如何なる故ぞ。吉隆、背炙は無双の険阻なり、一夫刀を横たふれば、万卒も通ること能はざるは、将卒共に伝聞する所なり、依て上下心を悩まし、危ぶみ恐る、彼国の地利を熟したる直政も、甚だ攻難き所なりと告ぐるに依て、諸将各気を屈し、其色既に面に顕はれり、内府之を見て、険阻と雖も、険とするに足らざるの理を尽して、直政を叱りたる故、諸将初めて心を安んず、内府は軍慮の知識なりと、太閤の嘆美ありしも是事なり、と言て感心せり。
書き下し
○慶長五年六月十一日、家康、諸將を會し、會津の攻口を定めし時に、山内一豐、吉隆と共に退きけるが、途にして一豐、吉隆に問て曰く、今度會津征伐のこと、來春にも發向ありて然るべしと諫めけれども、內府、聽かず、如何なる遠慮ならんと。吉隆我察するに、甚だ深慮あるべし、第一は國に亂臣ある時、速かに兵を發するは、敵軍の未だ守備整はざるを伐つこと、兵法にあり。是一つなり。又發軍遲緩なる時は、城郭經營成て、兵士多く集まり、糧米も多く貯ふべし、然らば自から征伐に日を送る、況や一年を越ゆるをや、是二つ、又連書の中に、景勝と親友多し、彼輩謀を設け、辭を巧にし、發陣を遲緩ならしめ、守備を整んと欲するもあらんと察せらるゝことなれば諫めを妄りに用ひられず、是三つ、景勝一人の計策にあるべからず、定めて與力を勸め賴まん、然れば遲緩に及ばゞ、與力の輩を增益すべし、今其微勢なるに乘じて、征伐ありて、景勝亡びなば、與力の輩は、自から靡まらんの思慮ならん、是四つ。又諸將を集め軍議あらば、其中に景勝の與力の輩あらば、征伐を速かにするを止むべし、然らずとも形狀を伺はば、顏色にも顯はるべきなれば、夫等を察し、計策、或は指揮にも思慮あらん爲めならん、是五つ。是の五つの遠慮を以て、諸將に思慮を包まず告ぐべしとは、命ありしと見えたりと言ふ。一豐、又問ふ、堀直政が險阻のことを言ひしを、內府叱られたるは、如何なる故ぞ。吉隆、背炙は無雙の險阻なり、一夫刀を橫たふれば、萬卒も通ること能はざるは、將卒共に傳聞する所なり、依て上下心を惱まし、危ぶみ恐る、彼國の地利を熟したる直政も、甚だ攻難き所なりと告ぐるに依て、諸將各氣を屈し、其色旣に面に顯はれり、內府之を見て、險阻と雖も、險とするに足らざるの理を盡して、直政を叱りたる故、諸將初めて心を安んず、內府は軍慮の知識なりと、太閤の歎美ありしも是事なり、と言て感心せり。
現代語訳
慶長五年六月十一日、家康が諸将を集めて会津の攻め口を定めた時、山内一豊は吉隆とともに退出したが、道中で一豊が吉隆に尋ねた。「このたびの会津征伐は、来春に出陣してはどうかと諫めたが、内府は聞き入れなかった。どういう考えであろうか」。吉隆は言った。「私が察するに、深い考えがあるに違いない。第一に、国に乱臣がある時に、速やかに兵を発するのは、敵軍の守備がまだ整わないうちに討つということで、兵法にある。これが一つ。また、出陣が遅くなれば、城郭の普請が成り、兵士が多く集まり、糧米も多く蓄えるだろう。そうなれば自然に征伐に日を送ることになり、まして一年を越えるならなおさらである。これが二つ。また連署の中に、景勝と親しい者が多い。彼らが計略を設け、言葉を巧みにして、出陣を遅らせ、守備を整えさせようとするかもしれないと察せられるので、諫めをみだりに用いなかった。これが三つ。景勝一人の計略ではなく、必ず与力を勧め頼むだろう。それなら遅れれば与力の者が増える。今、その微勢のうちに征伐して景勝が滅びれば、与力の者は自然に靡くだろうという思慮であろう。これが四つ。また諸将を集めて軍議があれば、その中に景勝の与力の者があれば、征伐を速くするのを止めるだろう。そうでなくとも様子をうかがえば、顔色にも現れるだろうから、それらを察して、計略や指揮に思慮があるためであろう。これが五つ。この五つの遠慮を、諸将に隠さず告げよという命があったと見える」と言った。一豊はまた尋ねた。「堀直政が険しい地形のことを言ったのを、内府が叱られたのは、どういう理由か」。吉隆は言った。「背炙は無双の険阻で、一人の男が刀を横たえれば、万の兵も通れないことは、将卒皆が伝え聞いているところだ。そのため上下とも心を悩ませ、危ぶみ恐れている。かの国の地理に詳しい直政も、はなはだ攻めがたい所だと告げたので、諸将は皆気が挫け、その色は既に顔に表れた。内府はこれを見て、険阻であっても険とするに足りない理を尽くして、直政を叱ったので、諸将は初めて心を安んじた。内府は軍略の知識があると、太閤が嘆美したのもこのことである」と言って感心した。
解説

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