名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 前田邸の夜と行長の献策
○慶長四年三月、家康伏見より大阪へ下向ありて、前田利家の病を訪はる。時に細川忠興、淺野幸長等の人々相集り、石田三成が背語に及ぶ所に、三成唐突に入れり。人々大に驚愕す、利家怒り、三成を殺んとせしを、家康扱ありて故なく事濟みたり。此の夜、家康、藤堂高虎の中の島の營に止宿なり、行長、三成等は宇喜田秀家の邸に集り種々評議しけるが、三成吾前田の邸に往て、不意に座席に入りし時、人々仰天せり。是は合戰の評定ありし所に、我等參りし故、興を醒ましたるなるべし、其内に内府は聊か驚く氣色もなく、尋常の如く挨拶せり。如何樣戰近きにあらんかと言ければ、行長聞て、否々内府の方より兵を起さんこと思ひも寄らず、其故は、近々軍を發せんと評定せし所へ、敵の棟梁只一人來りしを、誰か助けて歸すべき、貴殿を助け戻せしは内府の策に紛れなし、五奉行の其一人を殺害あらば、世擧げて逆意と稱し、起請文を破り、兵を起すに於ては、戰ふとも利あらずと、天理を深く敬ひ、世の誹を受けざらんことを常に嗜む人なれば是より後も軍を發せず、若し此方より兵を起さば、却て謀叛人と稱し、攻滅さんと相議せし條疑ふ所なし、兎に角謀叛人の名を蒙らんと思ひ定め軍せらるべくんば、今宵味方の勢を集め、藤堂の邸を襲ひ攻め運を天に任せらるべし、内府は旅營なり、藤堂は小身なれば、弓銃も寡なからん、一定味方の勝利たるべしと、一向に勸めけれども異議區々にして決せず、行長大に憤り、己が宿所へ歸りけり。
新字:○慶長四年三月、家康伏見より大阪へ下向ありて、前田利家の病を訪はる。時に細川忠興、浅野幸長等の人々相集り、石田三成が背語に及ぶ所に、三成唐突に入れり。人々大に驚愕す、利家怒り、三成を殺んとせしを、家康扱ありて故なく事済みたり。此の夜、家康、藤堂高虎の中の島の営に止宿なり、行長、三成等は宇喜田秀家の邸に集り種々評議しけるが、三成吾前田の邸に往て、不意に座席に入りし時、人々仰天せり。是は合戦の評定ありし所に、我等参りし故、興を醒ましたるなるべし、其内に内府は聊か驚く気色もなく、尋常の如く挨拶せり。如何様戦近きにあらんかと言ければ、行長聞て、否々内府の方より兵を起さんこと思ひも寄らず、其故は、近々軍を発せんと評定せし所へ、敵の棟梁只一人来りしを、誰か助けて帰すべき、貴殿を助け戻せしは内府の策に紛れなし、五奉行の其一人を殺害あらば、世挙げて逆意と称し、起請文を破り、兵を起すに於ては、戦ふとも利あらずと、天理を深く敬ひ、世の誹を受けざらんことを常に嗜む人なれば是より後も軍を発せず、若し此方より兵を起さば、却て謀叛人と称し、攻滅さんと相議せし条疑ふ所なし、兎に角謀叛人の名を蒙らんと思ひ定め軍せらるべくんば、今宵味方の勢を集め、藤堂の邸を襲ひ攻め運を天に任せらるべし、内府は旅営なり、藤堂は小身なれば、弓銃も寡なからん、一定味方の勝利たるべしと、一向に勧めけれども異議区々にして決せず、行長大に憤り、己が宿所へ帰りけり。
書き下し
○慶長四年三月、家康伏見より大阪へ下向ありて、前田利家の病を訪はる。時に細川忠興、淺野幸長等の人々相集り、石田三成が背語に及ぶ所に、三成唐突に入れり。人々大に驚愕す、利家怒り、三成を殺んとせしを、家康扱ありて故なく事濟みたり。此の夜、家康、藤堂高虎の中の島の營に止宿なり、行長、三成等は宇喜田秀家の邸に集り種々評議しけるが、三成吾前田の邸に往て、不意に座席に入りし時、人々仰天せり。是は合戰の評定ありし所に、我等參りし故、興を醒ましたるなるべし、其内に内府は聊か驚く氣色もなく、尋常の如く挨拶せり。如何樣戰近きにあらんかと言ければ、行長聞て、否々内府の方より兵を起さんこと思ひも寄らず、其故は、近々軍を發せんと評定せし所へ、敵の棟梁只一人來りしを、誰か助けて歸すべき、貴殿を助け戻せしは内府の策に紛れなし、五奉行の其一人を殺害あらば、世擧げて逆意と稱し、起請文を破り、兵を起すに於ては、戰ふとも利あらずと、天理を深く敬ひ、世の誹を受けざらんことを常に嗜む人なれば是より後も軍を發せず、若し此方より兵を起さば、却て謀叛人と稱し、攻滅さんと相議せし條疑ふ所なし、兎に角謀叛人の名を蒙らんと思ひ定め軍せらるべくんば、今宵味方の勢を集め、藤堂の邸を襲ひ攻め運を天に任せらるべし、内府は旅營なり、藤堂は小身なれば、弓銃も寡なからん、一定味方の勝利たるべしと、一向に勸めけれども異議區々にして決せず、行長大に憤り、己が宿所へ歸りけり。
現代語訳
慶長四年三月、家康は伏見から大坂へ下向し、前田利家の病を見舞われた。時に細川忠興、浅野幸長らの人々が集まり、石田三成の背反を語り合っているところに、三成が唐突に入って来た。人々は大いに驚愕した。利家は怒り、三成を殺そうとしたが、家康が扱って、故なく事は済んだ。この夜、家康は藤堂高虎の中の島の営に止宿された。行長、三成らは宇喜多秀家の邸に集まり、種々評議したが、三成は、私が前田の邸に行って、不意に座席に入った時、人々は仰天した。これは合戦の評定をしていたところに、私が参ったので、興を醒ましたのだろう。その中で内府はいささかも驚く気色なく、尋常のように挨拶した。どうも戦が近いのではないかと言うと、行長は聞いて、いやいや、内府の方から兵を起こすことは思いも寄りません。その理由は、近々軍を発しようと評定していたところへ、敵の棟梁がただ一人来たのを、誰が助けて帰すでしょう。貴殿を助け戻したのは、内府の策に紛れもありません。五奉行のその一人を殺害すれば、世を挙げて逆意と称し、起請文を破り、兵を起こすなら、戦っても利はありません。天理を深く敬い、世の誹りを受けまいと常に嗜む人なので、これより後も軍を発しますまい。もしこちらから兵を起こせば、かえって謀叛人と称し、攻め滅ぼそうと相談したことは、疑う余地もありません。とにかく謀叛人の名を蒙ろうと思い定めて戦をなさるなら、今宵味方の勢を集め、藤堂の邸を襲い攻めて、運を天に任せられるべきです。内府は旅営、藤堂は小身なので、弓銃も少ないでしょう。きっと味方の勝利になりますと、一向に勧めたけれども、異議がまちまちで決せず、行長は大いに憤り、自分の宿所へ帰った。
解説

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名将言行録・『名将言行録』石田三成 伏見攻めの指揮と情け○會津の役、家康兵を率ゐて東下せり。三成、使を家康に遣はし、從軍せんことを請ふ、家康返事に、其元には當時逼塞の儀なれば差控へ、子息隼人正に人數少々相副へ差下さるべしとのことなり、之に依り石田家中の者共、會津陣と披露して、公然と陣支度し、兵を關西に起す、畿內、山陽、山陰、南海、西海等の諸將、皆三成に應ず。七月伏見城を圍み攻む、二十七日、三成伏見に往て、攻城の體を見るに、味方攻寄する毎に討死多し、依て諸將に向て曰く、人々大軍を頼み法を亂して攻めらるゝこと、甚だ卒爾の至りなり、城兵は必死を究めし者共なり、各々法を正し圖を合はせて攻むべしと評議を定め、且つ家臣高野越中に命じて曰く、城兵必ず門を開き突出て必死の戰を決せん、然らば寄手悉く散亂すべし、其時汝脇より掛け喰止むべしと、三千餘騎を附殘して、大阪に歸れり。高野は其言の如く脇の山に備て、時を待居たり、果して城兵突出す、越中之を橫擊して利を得たり。 ○此役、鳥居元忠の茶道神崎竹谷を擒にす。三成竹谷を呼出して、伏見城中始終のことを具に尋ね、元忠が忠死の程を感歎し、且つ竹谷に謂て曰く、元忠子息新太郎、父が戰死の有り樣さぞ覺束なく思ふらん、急に關東に下り、合戰の次第を新太郎に語るべしとありて、命を助けしのみならず、傳馬以下のことまで厚く沙汰し、東國に送れり。之に依り、新太郎忠政を始め、家中の妻子まで、何れも討死の顛末を聞くことを得たり。
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