名将言行録 / 『名将言行録』島津義弘 夜討を勧めた関ヶ原前夜
○征韓の役、義弘戰の暇には、近衞殿下の筆跡を學び、淨書して遙々本朝へ遣はし、殿下の直しを請ひにけり。今其の朱にて直されし淨書傳はれり。又陣中に携へたる、古今和歌集、千載集、拾遺集或は論語等の書數部是亦存せり。軍務繁劇の間、其從容率ね是類なり。 ○關ヶ原の役、九月十四日、家康、馬を進め岡山に陣す。義弘猶子中務大輔豐久、阿多長壽院等と夜討するも、家康は備ふる所あるや必せり。然れども明日戰はんよりは、必ず利あることを信じ、石田三成に夜討のことを論ず。三成曰く、明日の戰必勝を期せり、危き夜戰し給ふべからずと。義弘曰く、明日の戰、貴殿何を以て其必勝を期せられんやと。三成曰く、田中吉政我に通じ、内應を爲せりと。義弘曰く、此豈に信ずるに足らんや、貴殿之を信じ、必勝を期されなば、恐らくは其欺く所とならん、今内府新たに來り、其兵疲れり、止舍未だ定らざるに及びて、之を擊たば必ず利あらんと、刻を移して論ぜしかども、三成肯んぜず。義弘歸營して、明日の戰死を決したりと云ふ。黒田氏の將、後藤基次、其主長政に告げて曰く、島津、武事に閑習す。今夜必ず岡山を襲はん、備なくんばあるべからず。長政、家康に告ぐ。家康曰く、憂ること勿れ。襲ふべからず。長政歸て基次に語る。基次深く之を危しとす。家康は此時既に藤堂高虎に命じて備へしめたり。
新字:○征韓の役、義弘戦の暇には、近衛殿下の筆跡を学び、浄書して遥々本朝へ遣はし、殿下の直しを請ひにけり。今其の朱にて直されし浄書伝はれり。又陣中に携へたる、古今和歌集、千載集、拾遺集或は論語等の書数部是亦存せり。軍務繁劇の間、其従容率ね是類なり。 ○関ヶ原の役、九月十四日、家康、馬を進め岡山に陣す。義弘猶子中務大輔豊久、阿多長寿院等と夜討するも、家康は備ふる所あるや必せり。然れども明日戦はんよりは、必ず利あることを信じ、石田三成に夜討のことを論ず。三成曰く、明日の戦必勝を期せり、危き夜戦し給ふべからずと。義弘曰く、明日の戦、貴殿何を以て其必勝を期せられんやと。三成曰く、田中吉政我に通じ、内応を為せりと。義弘曰く、此豈に信ずるに足らんや、貴殿之を信じ、必勝を期されなば、恐らくは其欺く所とならん、今内府新たに来り、其兵疲れり、止舎未だ定らざるに及びて、之を撃たば必ず利あらんと、刻を移して論ぜしかども、三成肯んぜず。義弘帰営して、明日の戦死を決したりと云ふ。黒田氏の将、後藤基次、其主長政に告げて曰く、島津、武事に閑習す。今夜必ず岡山を襲はん、備なくんばあるべからず。長政、家康に告ぐ。家康曰く、憂ること勿れ。襲ふべからず。長政帰て基次に語る。基次深く之を危しとす。家康は此時既に藤堂高虎に命じて備へしめたり。
書き下し
○征韓の役、義弘戰の暇には、近衞殿下の筆跡を學び、淨書して遙々本朝へ遣はし、殿下の直しを請ひにけり。今其の朱にて直されし淨書傳はれり。又陣中に携へたる、古今和歌集、千載集、拾遺集或は論語等の書數部是亦存せり。軍務繁劇の間、其從容率ね是類なり。 ○關ヶ原の役、九月十四日、家康、馬を進め岡山に陣す。義弘猶子中務大輔豐久、阿多長壽院等と夜討するも、家康は備ふる所あるや必せり。然れども明日戰はんよりは、必ず利あることを信じ、石田三成に夜討のことを論ず。三成曰く、明日の戰必勝を期せり、危き夜戰し給ふべからずと。義弘曰く、明日の戰、貴殿何を以て其必勝を期せられんやと。三成曰く、田中吉政我に通じ、内應を爲せりと。義弘曰く、此豈に信ずるに足らんや、貴殿之を信じ、必勝を期されなば、恐らくは其欺く所とならん、今内府新たに來り、其兵疲れり、止舍未だ定らざるに及びて、之を擊たば必ず利あらんと、刻を移して論ぜしかども、三成肯んぜず。義弘歸營して、明日の戰死を決したりと云ふ。黒田氏の將、後藤基次、其主長政に告げて曰く、島津、武事に閑習す。今夜必ず岡山を襲はん、備なくんばあるべからず。長政、家康に告ぐ。家康曰く、憂ること勿れ。襲ふべからず。長政歸て基次に語る。基次深く之を危しとす。家康は此時既に藤堂高虎に命じて備へしめたり。
現代語訳
征韓の役で、義弘は戦の暇に、近衛殿下の筆跡を学び、清書して、遥々本朝へ遣わし、殿下の添削を請いました。今もその朱で直された清書が伝わっています。また陣中に携えた、古今和歌集、千載集、拾遺集、あるいは論語などの書数部も、これまた存しています。軍務が繁忙な間にも、その落ち着きは、おおむねこのようなものでした。 関ヶ原の役で、九月十四日、家康は馬を進めて岡山に陣しました。義弘は、甥の中務大輔豊久、阿多長寿院らと夜討ちをしても、家康は備えているところがあるに違いないと思いました。しかしながら、明日戦うよりは必ず利があることを信じ、石田三成に夜討ちのことを論じました。三成は言いました。明日の戦は必勝を期しています。危うい夜戦をなさるべきではありません、と。義弘は言いました。明日の戦に、あなたは何をもって必勝を期されるのか、と。三成は言いました。田中吉政が私に通じて、内応をしています、と。義弘は言いました。これは、信ずるに足りようか。あなたがこれを信じ、必勝を期されるなら、おそらくは欺かれるところとなるでしょう。今、内府は新たに来て、その兵は疲れています。宿舎がまだ定まらないうちに、これを撃てば必ず利があります、と、刻を移して論じましたが、三成は承知しませんでした。義弘は営に帰って、明日の戦で死ぬことを決めたということです。黒田氏の将の後藤基次は、その主君の長政に告げて言いました。島津は武事に習熟しています。今夜、必ず岡山を襲うでしょう。備えなくてはなりません。長政は家康に告げました。家康は言いました。憂えることはない。襲うはずはない、と。長政は帰って基次に語りました。基次は深くこれを危ういと思いました。家康はこのときすでに、藤堂高虎に命じて備えさせていました。
解説

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