玉勝間 / 十四の巻 鄂羅斯と云ふ国また控噶爾と云ふ国
同書にいはく、鄂羅斯、北邊之大國也、東界海、南界中國、西北隣控障爾、東-西距二萬餘里、南北窄狹、自千里至三千里不等。稱其王曰汗。自鄂羅斯之察-罕-汗歿無子、國人立其女爲汗嗣、後皆傳女迄今已七-世矣。仍襲其祖名-號、故國人猶稱爲察罕汗也。其女-主有所幸、或期年、或數-月、則殺之、生女承統續、謂其汗之嫡嗣也。生男則以爲他人之種也。云云、これいはゆる、ムスコビヤなり。しかるに右の下文にいはく、本控噶爾屬國、稱臣納貢、由-來已久、乾隆二十年、察罕汗恃其强大、不復稱臣、云云、仍復稱臣云云、其俗最重君臣之義、如其汗、雖無道之極、亦無有敢議其是非者。自古無叛-逆纂-奪之事。一-姓相-傳不知幾千年。視他-國之朝-夕易-姓者相-縣矣。云云、またいはく、控噶爾西北-方回子最-大之國地包鄂-羅-斯東西界之外、云云など見えたり。この控鳴爾と云ふ國、すなはちムスコピヤの事にはあらざるか。何とかや、混雜の誤あるやうに聞こゆ。
新字:同書にいはく、鄂羅斯、北辺之大国也、東界海、南界中国、西北隣控障爾、東-西距二万余里、南北窄狭、自千里至三千里不等。称其王曰汗。自鄂羅斯之察-罕-汗歿無子、国人立其女為汗嗣、後皆伝女迄今已七-世矣。仍襲其祖名-号、故国人猶称為察罕汗也。其女-主有所幸、或期年、或数-月、則殺之、生女承統続、謂其汗之嫡嗣也。生男則以為他人之種也。云云、これいはゆる、ムスコビヤなり。しかるに右の下文にいはく、本控噶爾属国、称臣納貢、由-来已久、乾隆二十年、察罕汗恃其強大、不復称臣、云云、仍復称臣云云、其俗最重君臣之義、如其汗、雖無道之極、亦無有敢議其是非者。自古無叛-逆纂-奪之事。一-姓相-伝不知幾千年。視他-国之朝-夕易-姓者相-県矣。云云、またいはく、控噶爾西北-方回子最-大之国地包鄂-羅-斯東西界之外、云云など見えたり。この控鳴爾と云ふ国、すなはちムスコピヤの事にはあらざるか。何とかや、混雑の誤あるやうに聞こゆ。
書き下し
同じく書にいわく、鄂羅斯は、北辺の大国なり、東は海に界し、南は中国に界し、西北は控噶爾に隣す、東西距ること二万余里、南北窄狭にして、千里より三千里に至るまで等しからず。その王を称して汗と曰う。鄂羅斯の察罕汗歿して子無きより、国人その女を立てて汗と為して嗣がしむ、後皆女に伝えて今に迄りて已に七世なり。仍りてその祖の名号を襲う、故に国人なお称して察罕汗と為すなり。その女主幸する所有れば、或いは期年、或いは数月にして、則ちこれを殺す、女を生めば統続を承けしめ、これをその汗の嫡嗣と謂うなり。男を生めば則ち以て他人の種と為すなり。云云、これいわゆる、ムスコビヤなり。しかるに右の下文にいわく、もと控噶爾の属国にして、臣と称して貢を納むること、由来已に久し、乾隆二十年、察罕汗その強大を恃み、また臣と称せず、云云、仍りてまた臣と称す云云、その俗最も君臣の義を重んず、その汗の如きは、無道の極みといえども、また敢えてその是非を議する者有ること無し。古より叛逆簒奪の事無し。一姓相伝えて幾千年なるかを知らず。他国の朝夕に姓を易うる者を視るに相懸たれり。云云、またいわく、控噶爾は西北方の回子の最大の国にして、地は鄂羅斯の東西の界の外を包む、云云など見えたり。この控噶爾と云う国、すなわちムスコビヤの事にはあらざるか。何とかや、混雑の誤りあるように聞こゆ。
現代語訳
同じ書物(『西域聞見録』)に言うには、「鄂羅斯(ロシア)は北方の大国である。東は海に接し、南は中国に接し、西北は控噶爾に隣する。東西の距離は二万里余り、南北は狭く、千里から三千里までと一定しない。その王を称して汗という。鄂羅斯の察罕汗が亡くなって子がなかったので、国人はその娘を汗として立てて継がせ、その後はみな女に伝えて、今に至るまですでに七代である。そこでその祖先の名号を受け継ぐので、国人はなお察罕汗と称している。その女主は寵愛する男がいると、一年あるいは数か月で、その男を殺す。女を生めば王統を継がせ、これを汗の嫡嗣という。男を生めば他人の種とする」云々。これはいわゆるムスコビヤ(モスクワ大公国=ロシア)である。ところが右の下の文に言うには、「もとは控噶爾の属国で、臣と称して貢ぎ物を納めることは由来がすでに久しい。乾隆二十年、察罕汗はその強大さを頼んで、もはや臣と称さなくなった(中略)、そこでまた臣と称した(中略)。その風俗は最も君臣の義を重んじ、その汗のような者は、無道の極みであっても、あえてその是非を論じる者はいない。昔から反逆や簒奪のことはない。一つの姓で相伝えて幾千年になるか分からない。他国が朝に夕に姓を変えるのを見ると、大きな隔たりがある」云々。また言うには、「控噶爾は西北方の回教徒の最大の国で、その地は鄂羅斯の東西の境の外を包んでいる」云々などと見える。この控噶爾という国が、つまりムスコビヤのことではないのか。どうも混同の誤りがあるように聞こえる。
解説
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