新論 / 虜情
及其喪師於控噶爾、〈控噶爾未詳其爲何國、疑熱馬之別名、余別有説、今不贅、當時熱馬不甚強大、蓋以其爲西夷祖國、故近旁諸國與共助之、同擯鄂羅、而淸人傳聞、以爲強大國也、〉講和既成、而益事東略、豈非欲有所取償焉乎、而其窺 中國、於是乎益甚、〈元文中鄂羅舶抵陸奥安房、然是後亦未屢來、以明和七年與控噶爾和、明年鄂羅畔辨者經 中國東南、測海深、造東洋圖、遣書荷蘭商夷、言其將收蝦夷諸島之意、又明年與蝦夷爭獵虎島、啗以物、遂役屬之、取失母失利島、尋潛入訥加麻、唱夷敎於月多頼、誘蝦夷日甚一日、於是 幕府闢蝦夷之議興矣、〉
新字:及其喪師於控噶爾、〈控噶爾未詳其為何国、疑熱馬之別名、余別有説、今不贅、当時熱馬不甚強大、蓋以其為西夷祖国、故近旁諸国与共助之、同擯鄂羅、而清人伝聞、以為強大国也、〉講和既成、而益事東略、豈非欲有所取償焉乎、而其窺 中国、於是乎益甚、〈元文中鄂羅舶抵陸奥安房、然是後亦未屡来、以明和七年与控噶爾和、明年鄂羅畔弁者経 中国東南、測海深、造東洋図、遣書荷蘭商夷、言其将収蝦夷諸島之意、又明年与蝦夷争猟虎島、啗以物、遂役属之、取失母失利島、尋潜入訥加麻、唱夷教於月多頼、誘蝦夷日甚一日、於是 幕府闢蝦夷之議興矣、〉
書き下し
其の師を控噶爾に喪ふに及びて(控噶爾は未だ其の何国たるかを詳らかにせず、疑ふらくは熱馬の別名ならん。余別に説有り、今贅せず。当時熱馬甚だしくは強大ならず、蓋し其の西夷の祖国たるを以て、故に近旁の諸国与に共に之を助け、同じく鄂羅を擯く。而して清人伝聞して、以て強大の国と為すなり)、講和既に成りて、益々東略を事とす、豈に償ひを取る所有らんと欲するに非ずや。而して其の中国を窺ふこと、是に於いてか益々甚だし(元文中、鄂羅の舶陸奥・安房に抵る。然れども是の後亦未だ屢々来たらず。明和七年を以て控噶爾と和し、明年、鄂羅の畔辨なる者、中国の東南を経て、海の深さを測り、東洋の図を造り、書を荷蘭の商夷に遣はして、其の将に蝦夷の諸島を収めんとするの意を言ふ。又明年、蝦夷と獵虎島を争ひ、啗はすに物を以てし、遂に之を役属し、失母失利島を取り、尋いで潜かに訥加麻に入り、夷教を月多頼に唱へ、蝦夷を誘ふこと日に甚だし。是に於いて幕府蝦夷を闢くの議興る)。
現代語訳
ロシアが控噶爾で軍を失うと(控噶爾がどの国なのかはよくわからないが、ドイツ(熱馬)の別名ではないかと思う。わたしには別に説があるが、ここでは繰り返さない。当時ドイツはそれほど強大ではなかったが、西洋人の祖国であるため近くの国々がともにこれを助け、そろってロシアを退けたのであろう。清の人は伝え聞いて、強大な国だと思ったのである)、講和が成ったのちは、ますます東方の攻略に力を入れた。どうしてその損失の埋め合わせを求めようとしたのでないことがあろうか。こうしてロシアがわが国(中国)をうかがうことは、いよいよ甚だしくなった(元文年間、ロシア船が陸奥・安房に来た。しかしその後はしばしば来ることはなかった。明和七年〔1770〕に控噶爾と和を結び、その翌年、ロシアの畔辨(ベニョフスキー)という者が、わが国の東南を通って海の深さを測り、東洋の地図を作り、オランダ商人に手紙を送って、ロシアが蝦夷の島々を収めようとしている意図を告げた。さらにその翌年、ロシアは蝦夷とラッコ島(獵虎島)を争い、物を与えて手なずけ、ついに従属させて、シムシル島(失母失利島)を取り、まもなくひそかにノッカマップ(訥加麻)に入り、月多頼で異国の教えを唱え、日に日に蝦夷を誘うようになった。こうして幕府で蝦夷地を開く議論が起こったのである)。
解説
この章句が説くこと
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風憲忠告・臨難苐九夫れ人臣にして國家言責の任に當れば、刑辱の事、敢えてその無き有るを必とせず、要は順って處り靜かに伺い、理を以てこれを□するに在るのみ。若し乃ち哀を求め憐れみを乞い、惴讋(ずいしょう)して所無ければ、巳に先ず撓(たわ)む、何を以てか自ら眀(あき)らかにせん。夫れ已の職を盡くし、國の爲民の爲にして罪を得るは、君子は以て辱と為さず、以て榮と為す。縲紲(るいせつ)せらると雖も、荊楚せらると雖も、斧鉞せらると雖も、庸(なん)ぞ愧(は)ずること何かあらんや。歷(あまね)く自古(いにしえよ)り禍患に處して亂れざる者を觀るに、三代よりの下、子路の纓(えい)を結ぶが如き、宜僚(ぎりょう)の色を正すが如き、王景文の客と碁を弈(う)つが如き、劉禕(りゅうい)の自ら謝表を書すが如き、魏元忠の赦を聞きて動ぜざるが如き、是れ皆真に義命の在る所を知る有るを以てなり、區區(くく)たる人力の得て移す所に非ざるなり。然れども士君子平昔(へいせき)飬う所、其の情と偽と、焉(ここ)に於いて以て見るべし。李斯刑に臨みて父子相泣き、楊子雲(揚子雲)收(とら)えられて□閣ほとんど死せんとし、王坦之謝安と名を齊しくするも、桓溫朝に來たるや倒(さかしま)に手板を執り、崔浩自ら子房に比するも、史事を辨ずるが為に聲嘶(か)れ股栗(こりつ)し、便溺(べんでき)隱すこと能わず。此れ彼れ惟だ名を事とするのみにして、聖賢性命の學に於いては實に未だ甞て諸(これ)を心に淂(え)ざりしを見るべし。善いかな、韓文公の言に曰く、「儒者の患難に於けるや、苟しくも其れ自らこれを取るに非ざれば、其の拒みて懷に受けざるや、河堤を築きて以て屋霤(おくりゅう)を障(ふせ)ぐが若し。其の容れてこれを消すや、水の海に於ける、氷の夏日に於けるが若し。其の玩びてこれを文辭を以て忘るるや、金石を奏でて以て蟋蟀(しっしゅつ)の鳴くを破るが若し」と。故に君子の學は、理を眀らかにし自ら信ずるを以て貴しと為す。
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『墨子』七患子墨子曰く、國に七患有り。七患なる者は何ぞ。城郭溝池、守る可からずして、宫室を治む、一の患なり。邊寇、境に至るも、四鄰救う莫し、二の患なり。先ず民力を無用の功に盡くし、無能の人に賞賜し、民力、無用に盡き、財寳、侍客に虚し、三の患なり。仕うる者は祿を待ち、游ぶ者は反るを思い、君は法を脩めて臣を討ち、臣は懾れて敢えて拂らわず、四の患なり。君、自ら以て聖智と為して事を問わず、自ら以て安彊と為して守備無く、四鄰、之を謀るも戒を知らず、五の患なり。言う所は忠ならず、忠とする所は信ならず、六の患なり。畜え種うる菽粟、以て之を食らわすに足らず、大臣、事を治むるに足らず、賞賜は喜ばしむる能わず、誅罰は威らしむる能わず、七の患なり。七患を以て國に居らば、必ず社稷無からん。七患を以て城を守らば、敵至りて國傾かん。七患の當たる所、國に必ず殃有り。
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論語・子張篇子張曰く、士は危うきを見ては命を致し、得るを見ては義を思い、祭には敬を思い、喪には哀を思う。其れ可なるのみ。
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葉隠・聞書第一大難大変(だいなんたいへん)に逢うても動転せぬといふは、まだしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍(かんきゆやく)して勇み進むべきなり。一関(いっかん)越えたる所なり。「水増されば船高し。」といふが如し。
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『墨子』兼愛下然らば即ち敢えて問う。今、嵗に癘疫有り、萬民、多く勤苦凍餒有りて、溝壑の中に轉死する者、既已に衆し。識らず、將に之の二君を擇ばんとするに、將に何にか從わんとするや。我れ以て其の此に於けるに當たりては、天下に愚夫愚婦無く、兼君を非とすと雖も、必ず兼君に從うを是と為さん。言いて兼を非とし、擇びては即ち此れ言行の拂うなり。識らず、天下の皆な兼を聞きて之を非とする所以の者は、其の故、何ぞや。
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