海国兵談抄録 / 自序・ロシアの動きと文武両全の勧め
竊に憶へば、若くは此以後の清主、無內患の時に乘じ、且つ元の古業を思合せて、如何なる無主義を起す間じきにもあらず、其時に至ては、貪欲を本とすれば、日本の仁政にも不可懐、又兵馬億萬の多きを恃めば、日本の武威にも不可畏、是明迄の唐山と、同じからざるわけ也、又近頃歐羅巴の莫斯哥未亞、其勢ひ無雙にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、此ごろは室韋の地方を略して、東の限り加模西葛杜加(即カムサスカ也蝦夷の東北に在)迄、押領したり、然ルに加模西葛杜加より東には此上取べき國土なし、此故に又西に顧みて蝦夷國の東なる千島を手に入るべき機しありと聞及べり、既に明和辛卯の年、莫哥斯未亞より加模西葛杜加え遣し置る豪傑、バロンマオリッツ、アラアダルハン、ベンゴロウといふ者、加模西葛杜加より船を發して、日本え押渡り、港々え下繩して、其の深サを計りながら、日本を過半乘廻したる事あり、就中、土佐の國に於ては、日本國に在合、阿蘭陀人えと認し書を遺置たることもある也、是等の事、其心根可憎可恐、是海國なるがゆへに、來る間敷船も乘る人の機轉次第にて、心易く來らるゝなりと察すべし、さて海國のわけと唐山の時勢とを辨じ得たる上に、又一ッの心得あり、其心得といふは偏武に不陷して、文武兩全なるべき事を欲し願ふべし、偏武なれば野也、無智也、元より兵者凶器也、然れども死生存亡の係る所にして、國の大事是に過るものはなきゆへ、野にして無智なる偏武の輩に任せ難き事也、此故に日本の古代は都には鼓吹司と淳和、獎學の兩院を置、國々には軍團と鄕學とを置て、皆文武を敎られたり、又孔子も文武兩全の意を述て、
新字:窃に憶へば、若くは此以後の清主、無内患の時に乗じ、且つ元の古業を思合せて、如何なる無主義を起す間じきにもあらず、其時に至ては、貪欲を本とすれば、日本の仁政にも不可懐、又兵馬億万の多きを恃めば、日本の武威にも不可畏、是明迄の唐山と、同じからざるわけ也、又近頃欧羅巴の莫斯歌未亜、其勢ひ無双にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、此ごろは室韋の地方を略して、東の限り加模西葛杜加(即カムサスカ也蝦夷の東北に在)迄、押領したり、然ルに加模西葛杜加より東には此上取べき国土なし、此故に又西に顧みて蝦夷国の東なる千島を手に入るべき機しありと聞及べり、既に明和辛卯の年、莫歌斯未亜より加模西葛杜加え遣し置る豪傑、バロンマオリッツ、アラアダルハン、ベンゴロウといふ者、加模西葛杜加より船を発して、日本え押渡り、港々え下縄して、其の深サを計りながら、日本を過半乗廻したる事あり、就中、土佐の国に於ては、日本国に在合、阿蘭陀人えと認し書を遺置たることもある也、是等の事、其心根可憎可恐、是海国なるがゆへに、来る間敷船も乗る人の機転次第にて、心易く来らるゝなりと察すべし、さて海国のわけと唐山の時勢とを弁じ得たる上に、又一ッの心得あり、其心得といふは偏武に不陥して、文武両全なるべき事を欲し願ふべし、偏武なれば野也、無智也、元より兵者凶器也、然れども死生存亡の係る所にして、国の大事是に過るものはなきゆへ、野にして無智なる偏武の輩に任せ難き事也、此故に日本の古代は都には鼓吹司と淳和、獎学の両院を置、国々には軍団と郷学とを置て、皆文武を教られたり、又孔子も文武両全の意を述て、
書き下し
竊に憶へば、若くは此以後の清主、無內患の時に乘じ、且つ元の古業を思合せて、如何なる無主義を起す間じきにもあらず、其時に至ては、貪欲を本とすれば、日本の仁政にも不可懐、又兵馬億萬の多きを恃めば、日本の武威にも不可畏、是明迄の唐山と、同じからざるわけ也、又近頃歐羅巴の莫斯哥未亞、其勢ひ無雙にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、此ごろは室韋の地方を略して、東の限り加模西葛杜加(即カムサスカ也蝦夷の東北に在)迄、押領したり、然ルに加模西葛杜加より東には此上取べき國土なし、此故に又西に顧みて蝦夷國の東なる千島を手に入るべき機しありと聞及べり、既に明和辛卯の年、莫哥斯未亞より加模西葛杜加え遣し置る豪傑、バロンマオリッツ、アラアダルハン、ベンゴロウといふ者、加模西葛杜加より船を發して、日本え押渡り、港々え下繩して、其の深サを計りながら、日本を過半乘廻したる事あり、就中、土佐の國に於ては、日本國に在合、阿蘭陀人えと認し書を遺置たることもある也、是等の事、其心根可憎可恐、是海國なるがゆへに、來る間敷船も乘る人の機轉次第にて、心易く來らるゝなりと察すべし、さて海國のわけと唐山の時勢とを辨じ得たる上に、又一ッの心得あり、其心得といふは偏武に不陷して、文武兩全なるべき事を欲し願ふべし、偏武なれば野也、無智也、元より兵者凶器也、然れども死生存亡の係る所にして、國の大事是に過るものはなきゆへ、野にして無智なる偏武の輩に任せ難き事也、此故に日本の古代は都には鼓吹司と淳和、獎學の兩院を置、國々には軍團と鄕學とを置て、皆文武を敎られたり、又孔子も文武兩全の意を述て、
現代語訳
ひそかに思うには、もしこの後の清の君主が、内なる憂いのない時に乗じ、元の昔の事業を思い合わせて、どのような無謀な考えを起こさないとも限りません。その時になって、貪欲を本としていれば、日本の仁政にも懐かず、また兵馬が億万と多いことを頼みにすれば、日本の武威をも恐れないでしょう。これが明までの中国と同じでない理由です。また近ごろ、ヨーロッパのモスクワ(ロシア)は、その勢いが並ぶものなく、遠く韃靼の北の地を侵略し、このごろは室韋の地方を奪って、東の限りは「カムサスカ」(カムチャツカ。蝦夷の東北にある)まで押さえました。ところがカムチャツカより東には、これ以上取るべき国土がありません。そのためまた西を顧みて、蝦夷国の東にある千島を手に入れる機会があると聞いています。すでに明和辛卯の年(明和八年)には、ロシアからカムチャツカに遣わされていた豪傑の、バロン・マオリッツ・アラアダ・ルハン・ベンゴロウという者が、カムチャツカから船を出して日本へ渡り、港々で縄を下ろして水深を測りながら、日本を半分以上も乗り回したことがあります。とりわけ土佐の国では、日本にいたオランダ人宛てと書いた書き置きを残したこともあります。これらのことは、その心根が憎むべきもので恐れるべきものであり、日本が海国であるからこそ、来るはずのない船も、乗る人の機転次第で気軽に来られるのだと察すべきです。さて、海国の理由と中国の時勢とをわきまえたうえで、もう一つの心得があります。それは、武に偏ることなく、文武両全であることを望み願うべきだということです。武に偏れば粗野で無知になります。もとより兵は凶器です。しかし生死存亡のかかるところで、国の大事にこれ以上のものはないので、粗野で無知な武一辺倒の者に任せるわけにはいきません。このため日本の古代は、都には鼓吹司と淳和院・奨学院の二院を置き、国々には軍団と郷学を置いて、どちらも文と武を教えました。また孔子も文武両全の意を述べて、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
説苑・君道周公、天子の位を践み徳を布き恵みを施す。遠くして逾々明らかに、十二牧、方三人、遠方の民を挙げ出だし、饑寒ありて衣食を得ざる者、獄訟ありて職を失う者、賢才ありて挙げられざる者あれば、以て天子に入りて告ぐ。天子其の君の朝に於いて、攝して之を進めて曰く、「意うに朕の政教に得ざる者有るか。何ぞ其の臨む所の民に饑寒ありて衣食を得ざる者、獄訟ありて職を失う者、賢才ありて挙げられざる者有るや」と。其の君帰るや、乃ち其の国の大夫を召し、天子の言を用って告ぐ。百姓之を聞きて皆喜びて曰く、「此れ誠に天子なり。何ぞ居ること深遠にして我を見ること之明らかなるや、豈に欺くべけんや」と。故に牧なる者は四門を辟き、四目を明らかにし、四聰を達する所以なり。是を以て近き者之に親しみ、遠き者之に安んず。詩に曰く、「遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定む」と、此を之れ謂うなり。
-
『韓非子』姦劫弒臣第十四明主は、天下をして己が為に視ざるを得ず、天下をして己が為に聴ざるを得ざらしむ。
-
『武家家訓集』朝倉敏景十七箇条「第三条」一、天下靜謐たりと雖も、遠近の諸國に目付を置き、常に其の風儀を窺はれるべき事、
-
史記 西南夷列伝秦の時常頞略ぼ五尺道を通じ、諸々の此の国に頗る吏を置く。十余歳にして、秦滅ぶ。漢興るに及び、皆此の国を棄てて蜀の故の徼を開く。巴蜀の民或いは窃かに出でて商賈し、其の筰馬・僰僮・髦牛を取る、此を以て巴蜀殷富なり。大行王恢東越を撃つ、東越王郢を殺して以て報ず。恢兵威に因りて番陽の令唐蒙をして指を風して南越に暁さしむ。南越蒙に蜀の枸醤を食はしむ、蒙従りて来たる所を問ふ、曰く「道は西北の牂柯よりす、牂柯江は広さ数里、番禺城下に出づ」と。蒙帰りて長安に至り、蜀の賈人に問ふ、賈人曰く、「独り蜀のみ枸醤を出だす、多く持して窃かに出でて夜郎に市る。夜郎は、牂柯江に臨み、江広さ百余歩、以て船を行るに足る。南越財物を以て夜郎を役属し、西は同師に至る、然れども亦臣使すること能はざるなり」と。蒙乃ち上書して上に説きて曰く、「南越王は黄屋左纛、地は東西万余里、名は外臣為るも、実は一州の主なり。今長沙・豫章を以て往かば、水道多く絶え、行き難し。窃かに聞く夜郎の有する所の精兵、十余万を得べし、船を牂柯江に浮かべ、其の不意に出づ、此れ越を制するの一奇なり。誠に漢の彊、巴蜀の饒を以て、夜郎の道を通じ、為に吏を置かば、易きこと甚だし」と。上之を許す。乃ち蒙を拝して郎中将と為し、千人を将ゐ、食重万余人、巴蜀の筰関より入り、遂に夜郎侯多同に見ゆ。蒙厚く賜ひ、喩すに威徳を以てし、約して為に吏を置き、其の子をして令と為さしむ。夜郎の旁の小邑皆漢の繒帛を貪り、以為へらく漢の道険しく、終に有すること能はずと、乃ち且く蒙の約を聴く。還りて報じ、乃ち以て犍為郡と為す。巴蜀の卒を発して道を治め、僰道より牂柯江を指す。蜀人司馬相如も亦西夷の邛・筰は郡を置くべしと言ふ。相如をして郎中将を以て往きて喩さしむ、皆南夷の如くし、為に一都尉、十余県を置き、蜀に属せしむ。
-
『韓非子』主道第五虚なれば則ち實の情を知り、静なれば則ち動の正を知る。
-
孫子・用間篇故に明君賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出づる所以の者は、先知なり。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る