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玉勝間 / 十四の巻 孟子

孟子に、不孝有三、無後爲大と云へり。然る時は、後あるが孝なること知るべし。もし後あるが孝ならば、身を富貴にせむこそ大孝ならめ。然るを、儒者の富貴を願はざるは、唯だおのが身を潔くせむとして、親を思はざるなり。これ又不孝と云ふべし。

新字:孟子に、不孝有三、無後為大と云へり。然る時は、後あるが孝なること知るべし。もし後あるが孝ならば、身を富貴にせむこそ大孝ならめ。然るを、儒者の富貴を願はざるは、唯だおのが身を潔くせむとして、親を思はざるなり。これ又不孝と云ふべし。

書き下し

孟子に、不孝に三有り、後無きを大と為すと云えり。然る時は、後あるが孝なること知るべし。もし後あるが孝ならば、身を富貴にせむこそ大孝ならめ。然るを、儒者の富貴を願わざるは、ただおのが身を潔くせむとして、親を思わざるなり。これ又不孝と云うべし。

現代語訳

『孟子』に「不孝に三つあり、跡継ぎがないのが最も大きい」と言っている。そうであれば、跡継ぎがあることが孝であると分かる。もし跡継ぎがあることが孝であるならば、身を富貴にすることこそ大きな孝であろう。それなのに儒者が富貴を願わないのは、ただ自分の身を清らかにしようとして、親のことを思わないのである。これもまた不孝と言うべきである。

解説

『孟子』離婁上篇の「不孝に三あり、後無きを大となす」という言葉を逆手に取って、儒者の清貧の態度を批判した段である。跡継ぎを残すことが孝の第一であるなら、それは家を栄えさせ続けることが孝だということであり、そうであれば身を富み栄えさせることこそ大きな孝のはずだ、と宣長は論を進める。ところが儒者は富貴を求めず清貧を誇る。それは自分の身を潔く見せたいだけで、親や家のことを思っていない、つまり不孝だというのである。宣長は、富貴を願うのは人の真心であり、それを隠して清貧を装うのは偽りだと考えていた。人の自然な欲を認める宣長の人間観が表れている。清貧を尊ぶ気持ちと、家族を豊かにしたい気持ちのどちらが本物かを考えさせる段である。

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