玉勝間 / 十四の巻 また
冉-伯-牛〓-疾をやむ。孔丘のいはく、命矣夫、斯-人也、而有斯疾也と云へり。天命いかでか、斯くひがことする。
書き下し
冉伯牛悪疾をやむ。孔丘のいわく、命なるかな、斯の人にして、斯の疾有るや、と云えり。天命いかでか、かくひがことする。
現代語訳
冉伯牛が悪い病にかかった。孔丘が言うには、「天命であろうか。この人にしてこの病があろうとは」と。天命というものが、どうしてこのような間違ったことをするのか。
解説
『論語』雍也篇で、徳行に優れた弟子の冉伯牛が重い病にかかり、孔子が見舞って「命なるかな、斯の人にして斯の疾あるや」と嘆いた場面を取り上げた短い段である。儒教では、天は善を助け悪を罰する正しいものとされ、人の運命は天命として受け入れるべきものとされる。宣長はそこを突いて、徳のある人が悪い病にかかるのが天命だというなら、天はなぜそのような誤りをするのかと問う。この巻の後の段で宣長は、世の中に理にかなわぬことが多いのに、それを天命と言うだけで天の誤りを責めないのはおかしいと論じており、ここはその短い予告になっている。宣長の考えでは、善人が不幸に遭うのは禍津日神の働きによるもので、天の正しさという理屈では説明できない。
関連する章句
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史記 仲尼弟子列伝冉耕、字は伯牛。孔子、以て徳行有りと為す。伯牛、悪疾有り、孔子往きて之を問ひ、牖より其の手を執り、曰く、「命なるかな、斯の人にして斯の疾有るや、命なるかな」と。
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孔子家語・七十二弟子解冉耕は、魯の人、字は伯牛、徳行を以て著名にして、惡疾有り。孔子曰わく、「命なるかな」と。
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論語・雍也篇子曰わく、伯牛に疾あり。子これを問う。牖にてその手を執りて曰く、亡びぬ、命なるかな!斯の人にして斯の疾有るかな、斯の人にして斯の疾有るかな!
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『長短経』運命今、洪範の咎徴を称すれば、則ち堯・湯の水旱の災有り。災を消し異を復すれば、則ち周宣の雲漢に寧ぞ我を聴く莫き有り。易に積善の余慶を称すれば、則ち顔・冉の短折の凶有り。善悪の報いは、類変万端にして、斉一なるべからず。故に視聴する者惑う。〔太史公曰く「書に称す『天道は親無く、常に善人に与す』と。七十子の徒に、仲尼独り顔回を荐めて学を好むと為す。然れども回や屢々空しく、糟糠にも厭かずして早夭す。天の善人に報施すること、何如ぞや。盗跖は日に不辜を殺し、人の肉を肝にし、暴戻恣睢にして、党を聚むること数千人、天下に横行し、竟に寿を以て終わる。是れ何の徳に遵うや。余甚だ惑う」と。〕嘗試みに之を言わん。孔子曰く「死生命有り」と。
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『論語と算盤』処世と信条・天は人を罰せず孔夫子が『罪を天に獲れば、祷る所なし』と言われた言葉のうちにある天とは、果たして何であろうか。私は天とは天命の意味で、孔夫子もまたこの意味において天なる語を用いられたものと信ずるのである。人間が世の中に活き働いているのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命がすなわち天の配剤となって顕れ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあったり、餅を売ったりする者があったりするのである。天命にはいかなる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、堯といえどもわが子の丹朱をして帝位を継がしむることあたわず、舜といえどもまた太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかったのである。これみな天命のしからしむるところで、人力のいかんともすべからざるところである。草木はどうしても草木で終わらねばならぬもので、鳥獣に成ろうとして成り得られるものでない。鳥獣とてもまたいかに成ろうとしたからとても、草木には成り得られぬものである。畢竟みな天命である。これによって稽えて見ても、人間は天命に従って行動せねばならぬものであることがすこぶる明らかになる。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上古人モ死生命アリ。富貴天ニ在ト云フ。風ノ吹テ来ル如トハ云ハヌ。伯牛カ手ヲ執テ。斯人ニシテ此病アル。命ナルカナト云。風ニ吹カルル如クトハナイ。此等ヲ以テ看ヨ。人間一生ノ貴賤貧富。患難逸楽。時ノ拍子トバカリハ云ハヌ。命ヲ受ル所有ルヘキシヤ。此者カ又神滅論ト云書ヲ著シテ云。形ハコレ神ノ質。神ト云者ハ形ノ用。利ノ刀ニ在ル如ク。刀没シテ利ノ留ルコト無ニ由テ。形滅シテ神ノ残ル理ナシト。此モ一往ハサモアルベキナレトモ。再三思惟セハ。ソノ大ニ相違セルコトヲ知ルヘシ。
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