呻吟語 / 内篇・修身・我主張して天に由らず
要得富貴福澤,天主張,由不得我;要做賢人君子,我主張,由不得天。
新字:要得富貴福沢,天主張,由不得我;要做賢人君子,我主張,由不得天。
書き下し
富貴福澤を得んと要するは、天主張して、我に由るを得ず。賢人君子と做らんと要するは、我主張して、天に由るを得ず。
現代語訳
富や地位や幸いを得ようとするのは天が取り仕切ることで、自分の思い通りにはなりません。賢人や君子になろうとするのは自分が取り仕切ることで、天の思い通りにはなりません。
解説
天と自分の管轄を、二十数字で対にします。富貴は天の分、人格は自分の分。しかも後半で、人格については天の思い通りにもならないと言い切るのが痛快です。生まれや運を理由に人格を諦めることを封じています。呻吟語でよく引かれる一段で、努力を注ぐ先を一行で示した形になっています。生まれや運を理由に、人格を諦めることを封じた一段です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
天命人格管轄努力自主
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『徂徠先生答問書』卷下其人智人力のとゞき不申場にいたり候ては、君子は天命を知りて心をうごかさず、我なすべき道を勤候故、をのづから天地鬼神のたすけを得候に、をろかなる人はわが智に見え不申候故、疑ひ生じ心を専らにしてはげみ候事なく、つとむる力よはり候故、其事破れ候て成就いたし不申候。たとへば船頭の舟に乗候に、船の上のわざは其道筋御座候て随分に智力を尽し候得ども、大洋に押出し、風波に逢候ては、智力も尽果、只仏神の力を頼候より外他事無之候。されども仏神の力を頼み候計にて、櫓械をもすて船底にひれふし居候計にては、生路を得べき様無御座候。仏神の力を頼み候上に、猶々己がつとむるわざを励候故、十死一生の難を凌ぎて生路を得候事に候。
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『初学訓』巻之三一人力を以て天命を得る道あり。士は、君に仕へてよく勤むれば、君の寵を得て、禄あつし。農は、田をつとめてよく作れば、秋のなりはひ多し。工商は、其家業をよくつとむれば富む。およそ、四民ともに、よくつとむれば家富む。古語にも、人生はつとめにあり、つとむれば乏しからず、といへり。又倹約を行ひて、濫りに財を費さざれば、よく家をたもちて貧しからず。又養生をよくつつしめば、命ながし。是皆、人力を以て天命を得る理あり。
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『論語と算盤』成敗と運命・成敗は身に残る糟粕とにかく人は誠実に努力黽勉して、自ら運命を開拓するがよい。もしそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬためと諦め、また成功したら智恵が活用されたとして、成敗にかかわらず天命に托するがよい。かくて敗れてもあくまで勉強するならば、いつかは再び好運に際会する時が来る。人生の行路は様々で、時に善人が悪人に負けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。ゆえに成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、まず誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ずその人に福し運命を開拓するように仕向けてくれるのである。
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『肝要工夫録』・天命の則天命といふは、理の體を以て云はば、天の命ずるところ、人物夫〻の則あることをいふなり。春になれば暖かに、夏くれば暑く、秋は涼しく、冬は寒くなるの類なり。則とは、その物その事につひて、必ずその道理のあることをいふなり。人と生れては、五常の德ある筈にて、親は子を愛すべき筈、子は親に孝を爲すべき筈、臣は君に忠を盡すべき筈、君は禮を以て臣を使ふ筈、犬は門を守る筈、鷄は時を告ぐる筈、何にても物があれば、筈といふ事あり、其筈といふ所を則と云ふて、自然と天の然らしむる處にて、是を天の命といふ。又用を以て命をいはば、善人には天より福を降し、惡人には禍を降す事にて、古語にも命を造す者は天なり、命を立つる者は我なりといひ、又富貴は天の與ふる所ならず、人の勤め行ふところなり、勤め行ふの後、天の與あるべしとなり。
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『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらず今日の社会状態は、昔よりは智識の発達が著しく進んで、思想感情の高尚な人が多くなった。さらに言い換えれば、一般の人格が高まって来ているのである。ゆえに金銭に対する念慮もよほど進んで来て、立派な手段を用いて収入を図り、善良なる方法をもって使用する人が多くなったので、金銭に対する公平なる見解をなすようになった。
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『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法現代青年に取って最も切実に必要を感じつつあるものは人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であったが、西洋文化の輸入するにつれて思想界に少なからざる変革を来し、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となった。すなわち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが十分咀嚼されておらず、というて耶蘇教が一般の道徳律になっている訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰嚮してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでいる位である。したがって一般青年の間に人格の修養ということはほとんど閑却されているかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき趨向である。