玉勝間 / 十四の巻 華夷
もろこしの國、後世の書どもを見れば、かの國の內、大かた南の方は、萬づの事まさり、北の方は、こよなく劣れるさまなり。然るに、中國とてほこりしは、北の方にて、南のかたは、夷と云ひていやしめたりし地なり。これを以ても、華夷と云ふ事の、虛にして實なきを知るべし。
新字:もろこしの国、後世の書どもを見れば、かの国の内、大かた南の方は、万づの事まさり、北の方は、こよなく劣れるさまなり。然るに、中国とてほこりしは、北の方にて、南のかたは、夷と云ひていやしめたりし地なり。これを以ても、華夷と云ふ事の、虚にして実なきを知るべし。
書き下し
もろこしの国、後世の書どもを見れば、かの国の内、大かた南の方は、万ずの事まさり、北の方は、こよなく劣れるさまなり。然るに、中国とてほこりしは、北の方にて、南のかたは、夷と云いていやしめたりし地なり。これを以ても、華夷と云う事の、虚にして実なきを知るべし。
現代語訳
中国の後の世の書物を見ると、あの国の中で、おおよそ南の方はあらゆる事が優れ、北の方はたいへん劣っている様子である。それなのに、中国(中華)と誇ったのは北の方で、南の方は夷と言って卑しめていた土地である。このことからも、華夷ということが、中身のない虚しいものであることを知るべきである。
解説
中国の「華夷思想」、すなわち自国を文明の中心である中華とし、周辺を野蛮な夷狄として卑しめる考えの虚しさを論じた短い段である。宣長は、後の時代の書物を見ると、中国の中でも南方のほうが文化も産業も優れ、北方は劣っているのに、古くは北方の黄河流域こそが中華を名乗り、長江以南は夷として卑しめられていたと指摘する。宣長の論は、華と夷の区別が生まれつきの優劣ではなく、自らを誇るための呼び名にすぎないことを示す。ただし宣長自身は、日本を万国に優れた国とする皇国の優越を説いており、この批判が自国には向けられていない点には、時代の言葉としての注意が要る。それでも、自分を中心に置いて他を見下す考えの根拠のなさを突く論法そのものは鋭い。
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