玉勝間 / 七の巻 唐の国人あだし国ある事を知らざりし事
斯くてそのよく知れる胡國などは、いたづらに廣きのみにして、いといやしく惡ろき國なるを、つねに見しり聞知りては、他國はいづれも皆、斯かる物とのみ思へりしから、何事もただ尊きは、吾ひとりと、みだりにほこれるなり。古へあだし國の事を、弘く知らざりし程こそ、さも有らめ、近き世になりて、遠き國國の事も、皆よく知られても、猶古、よりの癖を、改むる事無く、今に同じさまに、ほこりをるなるを、皇國にても、學問をもする人は、今は萬の國國の事をも、大かた知りたるべきに、猶昔よりの癖にて、もろこし人のみだりごとを信じて、ひたぶるに彼の國を尊みて、何事も皆、彼の國より始まれるやうに思ひ、彼の國より外に、國は無きごと心得居るは、いかなるまどひぞや。
新字:斯くてそのよく知れる胡国などは、いたづらに広きのみにして、いといやしく悪ろき国なるを、つねに見しり聞知りては、他国はいづれも皆、斯かる物とのみ思へりしから、何事もただ尊きは、吾ひとりと、みだりにほこれるなり。古へあだし国の事を、弘く知らざりし程こそ、さも有らめ、近き世になりて、遠き国国の事も、皆よく知られても、猶古、よりの癖を、改むる事無く、今に同じさまに、ほこりをるなるを、皇国にても、学問をもする人は、今は万の国国の事をも、大かた知りたるべきに、猶昔よりの癖にて、もろこし人のみだりごとを信じて、ひたぶるに彼の国を尊みて、何事も皆、彼の国より始まれるやうに思ひ、彼の国より外に、国は無きごと心得居るは、いかなるまどひぞや。
書き下し
かくてそのよく知れる胡国などは、いたずらに広きのみにして、いといやしく悪ろき国なるを、つねに見しり聞き知りては、他国はいずれも皆、かかる物とのみ思えりしから、何事もただ尊きは、吾ひとりと、みだりにほこれるなり。古あだし国の事を、弘く知らざりし程こそ、さも有らめ、近き世になりて、遠き国々の事も、皆よく知られても、なお古よりの癖を、改むる事無く、今に同じさまに、ほこりおるなるを、皇国にても、学問をもする人は、今は万の国々の事をも、大かた知りたるべきに、なお昔よりの癖にて、もろこし人のみだりごとを信じて、ひたぶるに彼の国を尊みて、何事も皆、彼の国より始まれるように思い、彼の国より外に、国は無きごと心得居るは、いかなるまどいぞや。
現代語訳
こうしてそのよく知っていた胡国などは、むやみに広いばかりで、たいそう卑しく劣った国であったのを、いつも見知り聞き知っていたので、他国はどれも皆このようなものだとばかり思っていたから、何事もただ尊いのは自分の国だけだと、むやみに誇っていたのである。昔、他国のことを広く知らなかったうちはそれも仕方がないだろうが、近い世になって、遠い国々のこともみなよく知られるようになってもなお、昔からの癖を改めることなく、今も同じように誇っている。それなのに、皇国(日本)においても、学問をする人は、今はあらゆる国々のことをおおよそ知っているはずなのに、なお昔からの癖で中国人のでたらめを信じ、ひたすらかの国を尊んで、何事もみなかの国から始まったように思い、かの国のほかに国はないかのように心得ているのは、なんという迷いであろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 唐の国人あだし国ある事を知らざりし事もろこしの国の古の人、すべて他国あることをしらず、おおかた国を治め、身を修むる道よりはじめて、万ずの事、みなその国の古の聖人と云いし物の、始めたるごとく心得て、天地の間に、国はただわれひとり尊しと、万ずにほこりならいたり。然るをやや後に、天竺と云う国より、仏法と云う物わたり来ては、いささかあだし国の有る事をも、知れるさまなり。かくて近き世にいたりては、かの天竺よりも、はるかに西のかたなる国々の事も、ようよう知られて、おおかた今は、天地の間の、万の国の事、おさおさ知られざるは無きを、その遥かの西の国々にも、もろこしに有るかぎりの事は、皆昔より有りて、もろこしには無き物も多く有り。もろこしより遥かにまされる事も有り。その国々は、皆近き世まで、もろこしと通いは無かりしかども、本より然か何事も、たらいて有るぞかし。そもそももろこしの古は、ただその近きほとりなる、胡国など云う国の事のみを、僅かによくは知りて、その外は、さしも遠からぬ国々の事も、こまかには知らず、おぼおぼしくて、すべて他国の事云えるは、みだりごとのみなり。
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『玉勝間』七の巻 もろこしに無きこともろこしのまなびする人、彼の国に無き事の、御国に有るをば、文盲なる事と、おとしむるを、もろこしにも有る事とだに云えば、さてゆるすは、いかにぞや。もろこしには、すべて文盲なる事は、無き物とや心得たるらむ。彼の国の学びするともがらは、よろずにかしこげに、物は云えども、かかる愚かなる事も有りけり。
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『玉勝間』一の巻 儒者の皇国の事をば知らずとてある事儒者に皇国の事を問うには、知らずと云いて、恥とせず。から国の事を問うに、知らずと云うをば、いたく恥と思いて、知らぬ事をも知りがおに云いまぎらわす。こは万づをからめかさむとする余りに、その身をも漢人めかして、皇国をばよその国のごともてなさむとするなるべし。されどなおから人には有らず、御国人なるに、儒者とあらむ者の、おのが国の事知らで有るべきわざかは。ただし皇国の人に対いては、さ有らむも、から人めきて善かんめれど、もし漢国人の問いたらむには、我は、そなたの国の事はよく知れれども、わが国の事は知らずとは、さすがにえ云いたらじをや。もしさも云いたらむには、己が国の事をだにえ知らぬ儒者のいかでか人の国の事をば知るべきとて、手をうちて、いたくわらいつべし。
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『玉勝間』十二の巻 物しり人もののことわりを論ずるやう世のものしり人、人の身のうえ、世の中のことわりなどを、さまざま心高く、いとかしこげには論えども、とかく云うもかく云うも、皆からぶみの趣きにて、その垣内を出ずる事あたわざるは、いかにぞや。
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『玉勝間』十一の巻 皇国の学者のあやしき癖すべて何事も、おのが国の事にこそ従うべけれ、そを捨てて、他の国の事に従うべきにはあらざるを、かえりて他の国の事に従うを、かしこきわざとして、皇国のことに従うをば、つたなきわざと心得ためるは、皇国の学者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとえば、もろこしの国を、もろこしともからとも云い、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇国の事なるを、然か云うをば拙しとして、中華中国など云うを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくわしく論いたれば、今さらに云わず。また中華中国などは、云うまじき事と、物のこころをわきまえたる人はた、なお漢もしは唐など云うをば、つたなしとや思うらむ、震旦支那など書くたぐいもあなるは、中華中国など云うにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる国より、附けたる名なれば、そもなおおのが国の事を捨てて人の国の事に従うにぞ有りける。もし漢と云い唐とも云わむを、おかしからずと思わば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書かむに、何事かあらむ。かく己が国の事をたてたらむこそは、雄々しき文ならめ。他の国のことにへつらいよりて書かむは、めめしく拙きわざにぞ有りける。
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『玉勝間』十の巻 物まなびの心ばへ皇国の学びとて、ことにする事は無くて、昔は、ただから学びをのみしける程に、世々をふるままに、古えの事は、ようようにうとくのみ成りゆき、から国の事は、ようように親しくなりもて来つつ、ついにその心は、もはらからざまにうつり果てて、上つ代の事は、物の意はさらにも云わず、言葉だに、聞きしらぬ異国のさえずりを聞くがごと、物うとくぞなりにける。かくて後にいたりて、皇国の学を、もはらとする事も始まりつれども、しか漢意の、久しくしみ附きたる人心にし有れば、ただ名のみこそ、みくにの学びには有りけれ、云いと云い、思いと思う事は、なおみなからにぞ有りけるを、みずからも、さは覚えざるなめり。されば近き世、学びの道ひらけて、万づさかしくなりぬるにつけても、なかなかにそのからごころのみ、深く盛りには成りて、古の意は、いよいよ遥かになむなりにけるを、この近き頃になりてぞ、そこに心つきぬる人の出で来そめて、世は皆からなる事をさとりて、人も我も、古えの心をたずぬる道の、明り初めぬる、しかすがに神直毘大直毘の神のましましける世は、なお行くさきいと頼もしくなむ。
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