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玉勝間 / 十一の巻 皇国の学者のあやしき癖

すべて何事も、おのが國の事にこそ從ふべけれ、そを捨てて、他の國の事に從ふべきにはあらざるを、かへりて他の國の事に從ふを、かしこきわざとして、皇國のことに從ふをば、つたなきわざと心得ためるは、皇國の學者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとへば、もろこしの國を、もろこしともからとも云ひ、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇國の事なるを、然か云ふをば拙しとして、中華中國など云ふを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらに云はず。又中華中國などは、云ふまじき事と、物のこころをわきまへたる人はた、猶漢もしは唐など云ふをば、つたなしとや思ふらむ、震旦支那など書たぐひもあなるは、中華中國など云ふにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる國より、附けたる名なれば、そも猶おのが國の事を捨てて人の國の事に從ふにぞ有ける。もし漢と云ひ唐とも云はむを、おかしからずと思はば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ。かく己が國の事をたてたらむこそは、雄雄しき文ならめ。他の國のことにへつらひよりて書むは、めめしく拙きわざにぞ有ける。

新字:すべて何事も、おのが国の事にこそ従ふべけれ、そを捨てて、他の国の事に従ふべきにはあらざるを、かへりて他の国の事に従ふを、かしこきわざとして、皇国のことに従ふをば、つたなきわざと心得ためるは、皇国の学者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとへば、もろこしの国を、もろこしともからとも云ひ、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇国の事なるを、然か云ふをば拙しとして、中華中国など云ふを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらに云はず。又中華中国などは、云ふまじき事と、物のこころをわきまへたる人はた、猶漢もしは唐など云ふをば、つたなしとや思ふらむ、震旦支那など書たぐひもあなるは、中華中国など云ふにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる国より、附けたる名なれば、そも猶おのが国の事を捨てて人の国の事に従ふにぞ有ける。もし漢と云ひ唐とも云はむを、おかしからずと思はば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ。かく己が国の事をたてたらむこそは、雄雄しき文ならめ。他の国のことにへつらひよりて書むは、めめしく拙きわざにぞ有ける。

書き下し

すべて何事も、おのが国の事にこそ従うべけれ、そを捨てて、他の国の事に従うべきにはあらざるを、かえりて他の国の事に従うを、かしこきわざとして、皇国のことに従うをば、つたなきわざと心得ためるは、皇国の学者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとえば、もろこしの国を、もろこしともからとも云い、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇国の事なるを、然か云うをば拙しとして、中華中国など云うを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくわしく論いたれば、今さらに云わず。また中華中国などは、云うまじき事と、物のこころをわきまえたる人はた、なお漢もしは唐など云うをば、つたなしとや思うらむ、震旦支那など書くたぐいもあなるは、中華中国など云うにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる国より、附けたる名なれば、そもなおおのが国の事を捨てて人の国の事に従うにぞ有りける。もし漢と云い唐とも云わむを、おかしからずと思わば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書かむに、何事かあらむ。かく己が国の事をたてたらむこそは、雄々しき文ならめ。他の国のことにへつらいよりて書かむは、めめしく拙きわざにぞ有りける。

現代語訳

すべて何事も、自分の国のやり方にこそ従うべきであって、それを捨てて他の国のやり方に従うべきではないのに、かえって他の国のやり方に従うのを賢いこととし、わが国のやり方に従うのを拙いことと心得ているようなのは、わが国の学者の妙な癖である。つまらないことではあるが、たとえば中国を「もろこし」とも「から」とも言い、漢文では「漢」とも「唐」とも書くのがわが国のやり方であるのに、そう言うのを拙いとして、「中華」「中国」などと言うのを賢いことと心得ている誤りについては、『馭戎慨言』で詳しく論じたので、今さら言わない。また、「中華」「中国」などは言ってはならないと、物の道理をわきまえている人でさえ、やはり「漢」または「唐」などと言うのを拙いと思うのであろうか、「震旦」「支那」などと書く類もあるようだが、それは「中華」「中国」などと言うのに比べればよいけれども、「震旦」「支那」などは西の方の国(天竺)から付けた名であるから、それもやはり自分の国のやり方を捨てて他人の国のやり方に従うことなのである。もし「漢」と言い「唐」とも言うのを面白くないと思うなら、漢文でも「諸越」とも「毛虜胡鴟」とも書けば、何の差し支えがあろうか。このように自分の国のやり方を立ててこそ、雄々しい文章であろう。他の国のやり方にへつらい寄って書くのは、女々しく拙いことである。

解説

中国をどう呼ぶかという一見些細な問題から、日本の学者の「他国に従うのを賢いとする癖」を批判した段である。儒者たちは中国を「中華」「中国」と呼んだが、それは中国が自らを世界の中心とする呼び名であり、日本人が使えば自国を夷狄の側に置くことになる。宣長はこれを『馭戎慨言』で論じたとし、さらに「震旦」「支那」も天竺側から付けた名だから同じく他国に従う呼び方だと退ける。日本の呼び方である「もろこし」を漢字で書くなら「諸越」でも、あえて卑しめた字の「毛虜胡鴟」でもよいと言うあたりには、宣長の激しい対抗意識がにじむ。この皇国中心の主張は時代の言葉であるが、呼び名一つに世界の見方が表れるという指摘は鋭い。言葉を選ぶことは立場を選ぶことである。

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