玉勝間 / 十四の巻 仁寿殿顛倒事
同記に、久安六年八月四日、午刻大風折木、終日不止云云、大內裏中仁壽殿顛倒、近年内裏殿舍、拂地顛倒、所殘此一殿也、今亦如此、可傷可傷。
新字:同記に、久安六年八月四日、午刻大風折木、終日不止云云、大内裏中仁寿殿顛倒、近年内裏殿舎、払地顛倒、所残此一殿也、今亦如此、可傷可傷。
書き下し
同じく記に、久安六年八月四日、午の刻大風木を折る、終日止まず云云、大内裏の中仁寿殿顛倒す、近年内裏の殿舎、地を払いて顛倒し、残る所この一殿なり、今また此くの如し、傷むべし傷むべし。
現代語訳
同じ『外記日記』に、「久安六年八月四日、正午ごろ大風が木を折り、一日中止まなかった(中略)。大内裏の中の仁寿殿が倒れた。近年、内裏の殿舎は地を払うように倒れて、残っていたのはこの一殿だけであった。それが今またこのようになった。嘆かわしいことだ、嘆かわしいことだ」とある。
解説
久安六年(一一五〇年)の大風で、大内裏の仁寿殿が倒れたことを記した『外記日記』の一節を写した段である。仁寿殿は内裏の中心近くにあった殿舎で、かつては天皇の日常の御座所でもあった。記録の書き手は、近年内裏の殿舎が次々に倒れて、残っていたのはこの一つだけだったのに、それも倒れてしまったと嘆き、「傷むべし傷むべし」と二度重ねている。平安時代後期には、たび重なる火災や災害に加え、朝廷の財政が細って内裏の再建がままならず、天皇は里内裏と呼ばれる貴族の邸宅に移り住むことが多くなっていた。保元の乱が起こるのはこの六年後である。宣長は評を加えないが、この抜き書きには、朝廷の権威が形の上でも崩れていく時代の空気が生々しく残っている。
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 水無瀨殿造りかへ御わたまし同書に、建保五年正月十日、上皇水無瀬殿の新御所に移徙し給う、これ本の御所、去年大風洪水の時、顛倒流失するの間、更に他所を点じて、造営せらるるなり、十二日水無瀬殿より還御す。
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