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玉勝間 / 三の巻 天徳四年内裡焼亡事

同記云、天德四年九月廿三日庚申、今夜亥三剋、內裡燒亡、火出宣陽門內方北腋陣、不出中隔外、天皇先御中院、次御朝所、頃之御職曹司、定行之寮警固使、累代珍寶、多以燒失云云、丑剋火止、廿四日云云、又昨夜、鏡二(和名加之古止古呂)並大刀契、不能取出、今日依勅令搜求、餘燼之上、已得其實、但調度燒損、其眞猶存、形質不變、甚爲神異、即大藏省韓櫃令奉納之、十月三日、縫殿大允藤文紀參申、去月廿四日、依宣旨御坐內裡賢所三所、遷奉縫殿寮之間、內記奉納威所三所、一所鏡、件鏡雖在猛火上而不涌損、即云伊勢御神云、二所眞形无破損、長六寸許、一所鏡已涌亂破損、紀伊國御神云云、大刀卌八柄之中、四柄、自清涼殿求出之、卌四柄、自溫明殿求出之、其中有節刀ハ契七十四枚、皆魚形也、自背中別兩、各有銘、併全不損、長各二寸余許、八枚金、十四枚銀、五十枚銀塗物、又有金銀涌亂一斗餘許也、左近少將源伊涉、將監藤原佐理、右近少將藤原助信、將監源時中、藏人主殿助藤原爲光、出納雀部有方、女官等同以祇候云云、云云、十一月四日、天皇自職曹司、遷御冷泉院。應和元年十一月廿日、天皇自冷泉院、遷御新造內裏、云云。

新字:同記云、天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥三剋、内裡焼亡、火出宣陽門内方北腋陣、不出中隔外、天皇先御中院、次御朝所、頃之御職曹司、定行之寮警固使、累代珍宝、多以焼失云云、丑剋火止、廿四日云云、又昨夜、鏡二(和名加之古止古呂)並大刀契、不能取出、今日依勅令捜求、余燼之上、已得其実、但調度焼損、其真猶存、形質不変、甚為神異、即大蔵省韓櫃令奉納之、十月三日、縫殿大允藤文紀参申、去月廿四日、依宣旨御坐内裡賢所三所、遷奉縫殿寮之間、内記奉納威所三所、一所鏡、件鏡雖在猛火上而不涌損、即云伊勢御神云、二所真形无破損、長六寸許、一所鏡已涌乱破損、紀伊国御神云云、大刀卌八柄之中、四柄、自清涼殿求出之、卌四柄、自温明殿求出之、其中有節刀ハ契七十四枚、皆魚形也、自背中別両、各有銘、併全不損、長各二寸余許、八枚金、十四枚銀、五十枚銀塗物、又有金銀涌乱一斗余許也、左近少将源伊渉、将監藤原佐理、右近少将藤原助信、将監源時中、蔵人主殿助藤原為光、出納雀部有方、女官等同以祇候云云、云云、十一月四日、天皇自職曹司、遷御冷泉院。応和元年十一月廿日、天皇自冷泉院、遷御新造内裏、云云。

書き下し

同記に云う、天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥の三剋、内裏焼亡す、火は宣陽門内の方北腋の陣より出づ、中隔の外に出でず、天皇先ず中院に御し、次に朝所に御し、頃くして職の曹司に御す、定めて行う寮警固使、累代の珍宝、多く以て焼失す云云、丑の剋火止む、廿四日云云、又昨夜、鏡二(和名加之古止古呂)並びに大刀契、取り出すこと能わず、今日勅に依りて捜し求めしむ、余燼の上、已に其の実を得たり、但し調度焼損す、其の真は猶存す、形質変わらず、甚だ神異たり、即ち大蔵省の韓櫃に之を納め奉らしむ、十月三日、縫殿大允藤文紀参りて申す、去月廿四日、宣旨に依りて内裏の賢所に御坐す三所を、縫殿寮に遷し奉るの間、内記威所三所を納め奉る、一所の鏡、件の鏡は猛火の上に在りと雖も涌損せず、即ち伊勢御神と云う、二所は真形破損无し、長さ六寸許り、一所の鏡は已に涌乱破損す、紀伊国御神と云う云云、大刀卌八柄の中、四柄は、清涼殿より之を求め出し、卌四柄は、温明殿より之を求め出す、其の中に節刀ハ契七十四枚有り、皆魚形なり、背中より両に別る、各銘有り、併せて全く損せず、長さ各二寸余許り、八枚は金、十四枚は銀、五十枚は銀塗物、又金銀の涌乱一斗余許り有るなり、左近少将源伊渉、将監藤原佐理、右近少将藤原助信、将監源時中、蔵人主殿助藤原為光、出納雀部有方、女官等同じく以て祗候す云云、云云、十一月四日、天皇職の曹司より、冷泉院に遷御す。応和元年十一月廿日、天皇冷泉院より、新造内裏に遷御す、云云。

現代語訳

同じ『日本紀略』に次のようにある。「天徳四年九月二十三日庚申、今夜亥の三刻に内裏が焼亡した。火は宣陽門の内側、北脇の陣から出た。中隔の外には広がらなかった。天皇はまず中院にお移りになり、次に朝所(あいたんどころ)に、しばらくして職の曹司にお移りになった。警固の使いを定めて行わせた。代々の珍宝の多くが焼失した云々。丑の刻に火が止んだ。二十四日云々。また昨夜、鏡二面(和名でかしこどころ)と大刀契(たいとけい)を取り出すことができなかったので、今日、勅によって探させたところ、燃えさしの上にすでにその実物を見つけた。ただし付属の調度は焼け損じたが、本体はなお無事で、形も質も変わっておらず、はなはだ神秘的なことであった。そこで大蔵省の韓櫃(からびつ)にお納めさせた。十月三日、縫殿大允の藤原文紀が参上して申し上げた。去る二十四日、宣旨によって内裏の賢所にお鎮まりの三所を縫殿寮にお遷し申し上げる間に、内記が三所をお納め申し上げた。一所の鏡は、猛火の上にあったのに溶け損じておらず、伊勢の御神という。二所目は本来の形に破損が無く、長さ六寸ほど。一所の鏡はすでに溶け乱れて破損しており、紀伊国の御神という云々。大刀四十八振りのうち、四振りは清涼殿から、四十四振りは温明殿から探し出した。その中に節刀と契が七十四枚あり、みな魚の形で、背中から二つに分かれ、それぞれ銘があり、すべて全く損じていない。長さはそれぞれ二寸余りで、八枚は金、十四枚は銀、五十枚は銀塗りである。また金銀の溶け乱れたものが一斗余りほどあった。左近少将源伊渉、将監藤原佐理、右近少将藤原助信、将監源時中、蔵人主殿助藤原為光、出納雀部有方、女官らも同じく伺候した云々。十一月四日、天皇は職の曹司から冷泉院にお移りになった。応和元年十一月二十日、天皇は冷泉院から新造の内裏にお移りになった云々」。

解説

天徳四年(960)九月、平安京の内裏が遷都以来はじめて全焼した火災の記録である。宣長が長い漢文をそのまま写したのは、焼け跡から賢所の神鏡が見つかったくだりのためだろう。三面の鏡のうち、伊勢の御神と称された鏡は猛火の上にありながら溶け損じず、形も変わらなかった、と記録は「甚だ神異たり」と記す。一方で紀伊国の御神とされる鏡は溶けて破損していた。賢所の神鏡は天照大御神の御霊代とされる神聖なもので、その無事は神の加護として受け止められた。宣長は評を加えず、焼けた大刀の数や契の材質まで含めて記録をそのまま示している。奇跡めいた話も、同時代の公的な記録にどう書かれているかをそのまま見せる。それが宣長の考える、古い事実への誠実な向き合い方である。

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