玉勝間 / 十四の巻 奈良の大仏ノ像より露流れ落ヲし事
外記日記に、長保四年十月一日、云云、次召陰陽寮於陣腋、有御占、是依東大寺大鐘、九月廿一日巳時、濕水如露流、申尅、大佛御身悉潤濕、自頭如露而降如水流、蓮花座上解文也。
新字:外記日記に、長保四年十月一日、云云、次召陰陽寮於陣腋、有御占、是依東大寺大鐘、九月廿一日巳時、湿水如露流、申尅、大仏御身悉潤湿、自頭如露而降如水流、蓮花座上解文也。
書き下し
外記日記に、長保四年十月一日、云云、次に陰陽寮を陣の腋に召して、御占有り、これ東大寺の大鐘、九月二十一日巳の時、湿水露の如く流れ、申の刻、大仏の御身悉く潤湿し、頭より露の如くして降り水の流るるが如しという、蓮花座上の解文に依るなり。
現代語訳
『外記日記』に、「長保四年十月一日(中略)、次に陰陽寮を陣の脇に召して占いがあった。これは、東大寺の大鐘が九月二十一日巳の刻に露のように湿って水が流れ、申の刻には大仏のお体がことごとく濡れて、頭から露のように降り、水が流れるようであったという、蓮華座の上から差し出された報告書によるものである」とある。
解説
平安時代の外記(太政官の記録係)が書き継いだ公的な日記『外記日記』から、長保四年(一〇〇二年)に東大寺の大鐘と大仏が露のように濡れて水が流れたという怪異の記事を抜き出した段である。朝廷はこれを重大な兆しと受け止め、陰陽寮に占わせた。宣長は評を加えていないが、この後にも『外記日記』からの抜き書きが続き、古い公家の記録を読み込んでいたことがうかがえる。今日の目から見れば、気温の変化による結露と説明できるかもしれない。しかし宣長の関心は、そうした合理的な説明よりも、当時の人々が世の中の不思議をどう受け止め、どう対処したかを、記録そのままの形で残すことにあったのであろう。
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