玉勝間 / 九の巻 水無瀨殿造りかへ御わたまし
同書に、建保五年正月十日、上皇御移-徙水無瀨殿新御所、是本御所、去年大風洪水之時、顛倒流失之間、更點他所、被造營也、十二日自水無瀬殿還御。
新字:同書に、建保五年正月十日、上皇御移-徙水無瀨殿新御所、是本御所、去年大風洪水之時、顛倒流失之間、更点他所、被造営也、十二日自水無瀬殿還御。
書き下し
同書に、建保五年正月十日、上皇水無瀬殿の新御所に移徙し給う、これ本の御所、去年大風洪水の時、顛倒流失するの間、更に他所を点じて、造営せらるるなり、十二日水無瀬殿より還御す。
現代語訳
同じ書(『百練抄』)に、建保五年(1217)正月十日、上皇(後鳥羽上皇)が水無瀬殿の新しい御所にお移りになった。これは、もとの御所が去年の大風と洪水の時に倒れて流されてしまったので、あらためて別の場所を選んで造営されたものである。十二日、水無瀬殿からお帰りになった、とある。
解説
後鳥羽上皇の離宮、水無瀬殿の建て替えを『百練抄』から書き留めた短い段である。水無瀬殿は摂津の水無瀬(今の大阪府島本町)にあり、上皇はここを好んで度々遊び、歌会や遊宴を催した。その御所が大風と洪水で倒れて流され、場所を選び直して新たに造られたという。題の「わたまし」は貴人の転居をいう古い言葉である。この四年後に承久の乱が起こり、上皇は隠岐に流されて都に戻ることなく没した。宣長は評を加えていないが、歌の家の歴史の中で後鳥羽院の占める位置を思えば、その愛した離宮の消息を留めておく意味はあった。小さな記事も、人の生涯の背景を照らす手がかりになる。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 鳥羽離宮百練抄に云う、寛治元年二月五日、上皇鳥羽離宮に遷御す、営作甫めて就るの故なり、云々、件の地、本はこれ備前守季綱朝臣の領なり、去年これを進上す、讃岐守泰仲、舎屋を造り進ず。
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『玉勝間』九の巻 新勅撰集の事同書に、文暦元年十一月九日、中納言入道(定家卿)前関白家に於て、新勅撰(先院の御時奏覧せらる)を捜覧す、両殿下監せらる、頗る用捨の事有り、百首を切り棄てらると云云、又入れらるるの人有りと云云。
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『玉勝間』二の巻 水無瀨川そは類聚国史に、延暦弘仁の頃、天皇水成野に遊猟有りし事、たびたび見えて、水成村ともあり、すなわち今の水無瀬なり。然ればこの地の名によりて、後にかの川の名にも成れるなりけり。さて水成と書けるは、みなしとよむべきなり。万葉に水無川と書けるも、然よむべし。成無などは、なせとは読みがたければなり。されどかの地の名も、また川に云えるもともに、古よりみなしとも、みなせとも、通わし云えりと聞こえたり。
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『玉勝間』八の巻 後鳥羽ノ天皇ノ御諱のよみ後鳥羽の天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと仮字附け有り。成、平なりと云う事なるべし。
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