玉勝間 / 一の巻 中御門宣胤卿の記
また曰く、同十二月二十日云云。于時皇居土御門殿也、亂後有修理、去年十二月七日、自日野侍從政資亭還幸。また、文龜二年正月一日(乙亥)節會、世亂以後、至長享三年、廿二年退轉、延德二年再興、近年又退轉、當年依代始。所御再興。也、去年依諒闇爲平座。また、同二日、去夜勸修寺中納言、以回覽折紙、年始歲末禮令不參者、知行可有覺悟之由、室町殿仰候、當代大略不參之間、及此御沙汰。この年始歲末禮は、室町殿へ、公卿たちの參らるる事なり。可有覺悟とは、今世の語にも、覺悟せられよと云ふと同じ、又曰く、同二月十日、去年下遣越前使者、今日上、遲遲以外事也、河合莊(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山莊分三千疋、(亂以前請切万四千疋也)到來。など有り。これらは、書ども讀むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出て書るなり。亂れたりし世ほど、何事もいたく衰へたりしさましるせるを讀めば、いと悲しくて、ほとほと淚も落ちぬかし。今云云と書けるに二やう有り。そはまづ云云とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云へりなど云ふべき所に書けり。
新字:また曰く、同十二月二十日云云。于時皇居土御門殿也、乱後有修理、去年十二月七日、自日野侍従政資亭還幸。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、至長享三年、廿二年退転、延徳二年再興、近年又退転、当年依代始。所御再興。也、去年依諒闇為平座。また、同二日、去夜勧修寺中納言、以回覧折紙、年始歳末礼令不参者、知行可有覚悟之由、室町殿仰候、当代大略不参之間、及此御沙汰。この年始歳末礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。可有覚悟とは、今世の語にも、覚悟せられよと云ふと同じ、又曰く、同二月十日、去年下遣越前使者、今日上、遅遅以外事也、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋、(乱以前請切万四千疋也)到来。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出て書るなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰へたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云云と書けるに二やう有り。そはまづ云云とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云へりなど云ふべき所に書けり。
書き下し
また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
現代語訳
また「同十二月二十日。このとき皇居は土御門殿である。乱の後に修理があり、去年十二月七日に日野侍従政資の屋敷からお帰りになった。」また「文亀二年正月一日(乙亥)。節会。世の乱れ以後、長享三年に至るまで二十二年間途絶えていた。延徳二年に再興されたが、近年また途絶えていた。今年は代始め(後柏原天皇の即位)によって再興されたのである。去年は諒闇(天皇の服喪)のため平座(略式)であった。」また「同二日。昨夜、勧修寺中納言が回覧の折紙で、年始・歳末の礼に参らない者は知行(所領)について覚悟せよ、と室町殿(将軍)が仰せである、と知らせてきた。今の代はほとんどの者が参らないので、このお沙汰に及んだのである。」この年始・歳末の礼とは、室町殿へ公卿たちが参上されることである。「覚悟有るべし」とは、今の世の言葉で「覚悟なされよ」と言うのと同じである。また「同二月十日。去年越前に下し遣わした使者が今日上ってきた。遅いことこの上ない。河合荘(内裏の御料所)の御年貢三千疋、知行分の杣山荘の分三千疋(乱の前は請負で一万四千疋であった)が届いた。」などとある。これらは、書物を読んでいて、ふと心に留まる箇所があるのを、あれこれと少しずつ抜き出して書いたのである。乱れた世ほど、何事もひどく衰えた様子を記したのを読むと、たいへん悲しくて、ほとんど涙もこぼれてしまう。さて今「云々」と書いたものに二通りある。それはまず、「云々」とは、古い書物では語を省いた所に書いたが、中頃から近い世の書物では「となり」「と言えり」などと言うべき所に書いている。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記中御門の権大納言宣胤の卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午)、小朝拝・元三の御薬、乱中より今に至るまで十余年停止す。節会・諸社の祭・諸公事、悉く以て十余年停止す。また曰く、同十日、室町殿年始の参賀、毎年の式日なり、云々。摂家・清華、乱前は悉く車に乗るなり、今は悉く板輿なり、説くべからざるの為体、末世の至極、無力の者か。また曰く、二月廿一日、今日春日祭なり、乱中乱後、諸社の祭悉く停止す、然りと雖も此の祭に於いては、寺門として、上卿并びに諸司等に下行を致し、毎年両度、今に懈怠無し。また曰く、三月廿六日、今日県召除目の初夜なり、乱中一箇度(文明七)行わる、今度宰相中将殿の御昇進に依りて、武家として申し行わるる者なり、公卿・殿上人悉く少分の訪を付けらる、但し用脚未だ到らざるの間、各々半分たるべしと云々、関白五千疋(但し半減の数)、執筆二千疋、其の外公卿・殿上人各々三百疋(但し半分なり)、惣用三万疋と云々。いく疋と有るはみな銭なり。また曰く、同四月十五日、召しに依りて参内す、風雅集書き進ずべきの由、民部卿忠富・中将を以て仰せ下さる、御本・料紙(十六帖)之を下さる。また曰く、九月二日、参内す云々。唐鏡の校合有り。また、十月三日、今日禅閤参内し、江次第を談じ申さると云々。同十日、新関停廃の為、土一揆蜂起して通路を塞ぎ、北白川辺に集会し、関所を焼き払う、内裏修理料と号して、乱後七口所々に新関を立てらるるなり、武家自ら之を用うるの外、修理に於いては沙汰に及ばず、諸人の歎く所なり。また、十三日、参内す云々。同じく参会して河海抄を校合せらる。
-
『玉勝間』七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。
-
『玉勝間』一の巻 歌の御会のめぐらし文甘露寺権大納言元長卿記に云う、永正五年正月十四日、和哥御会の廻文を書き、釜殿を以て之を遣わす、鷺に慶音有り、右の御題、来る十九日披講有るべし、予参せしめ給うべき由、仰せ下され候なり、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(この所同じつらに廿三人の名あり)袖書に尅限は午の一点たるべきなり、丞相には別紙の折紙を以て之を相触る。
-
『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事同書に、文和四年二月十一日、天晴る、今日、吉田神主兼豊、状を女中に進むるの次いで、当社追捕の事之を申す、およそ為す方無きか、この程は、道もあまりにあまりにろうぜきに候。また斎屋をも見捨てがたくて、参り候わず、去る三日、山のぐんぜい社頭へ乱入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神宝を追捕し、また御かまいしいしまで、追捕しつる程に、ともかくも申す計り候わで、火にも水にも入りたきまでに、なげき存じ候、よし田の御参りも、今ちと御延わたらせおわしまして、事のよう、いささかも御らんじしずめられ候御事にて候え、とても今は、物参の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覚えさせおわしまして候、こまかにおおせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ。これ兼豊の状なり。山のぐんぜいとは、この程比叡の山にあつまりいたる軍勢を云えり。尊き御社を、さばかりそこない奉りけむ、その世のもののふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなども世のつねなり。また同じ書に同年七月廿六日、後に聞く、今夜窃盗頗る人勢を卒い、禁中の女房勾当内侍、並びに禁中管領宰相典侍已下の局に乱入し、悉く追捕す。台盤所の遣戸等、踏み破ると雖も、御所に入らず退散すと云々。末代の極み、悲しいかな。
-
『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記されば今もろもろの記録などの語をぬき出でて書くに、本にある云々は皆、となりと云えりなど云うべきところなる故に、かたわらにその仮字をつけて分かち、今私に語を略きて書ける所に書けるは、仮字を附けず、その心もて見るべし。
-
『玉勝間』七の巻 仁木頼景法師がみまかれる時の事同書に、同四年十月十二日、伝え聞く、仁木左京大夫頼景法師、今朝卒去すと云々。十三日云々、気止むと云々。十九日、今日、新院御楽の事有りと云々、云々、頼景法師卒去の間、取り敢えず音楽のごときは無益の旨、沙汰有り、禁裏は七箇日已後明日、御沙汰有るべしと云々、武家随分の重人なり。御沙汰然るべきか、仙洞はその沙汰に及ばざるか、ただしまた強いて難とすべからざるかと有り。この頃は、武家の執権と云いし人の卒去のおりも、かかる御沙汰の有りけるなりけり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る