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玉勝間 / 一の巻 中御門宣胤卿の記

中御門ノ權大納言宣胤ノ卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午、)小朝拜元三御藥、亂中至于今十餘年停止節會諸社祭諸公事、悉以十餘年停止。また曰く、同十日、室町殿年始參賀、每年式日也、云云攝家〓花、亂前悉乘車也、今悉板興也、不可說之爲躰、末世至極無力者歟。また曰く、二月廿一日、今日春日祭也、亂中亂後、諸社祭悉停止、雖然於此祭者、爲寺門、上卿并諸司等致下行、毎年兩度、于今無懈怠。又曰く、三月廿六日、今日縣召除目初夜也、亂中一箇度(文明七)被行、今度依宰相中將殿御昇進、爲武家被申行者也、公卿殿上人悉被付少分之訪、但用脚未到之間、各可爲半分云云、關白五千疋、(但半減數)執筆二千疋、其外公卿殿上人各三百疋、(但半分也)惣用三万疋云云。いく疋と有るはみな錢なり。又曰く、同四月十五日、依召參內、風雅集可書進之由、以民部卿忠富中將被仰下、御本料紙(十六帖)被下之。また曰く、九月二日、參內云云。唐鏡有校合。また、十月三日、今日禪閤參內、被談申江次第云云。同十日、爲新關停廢、土一揆蜂起塞通路、北白川邊集會、燒拂關所、號內裏修理料、亂後七口所所被立新關也、武家自用之外、於修理者不及沙汰、諸人之所歎也。また、十三日、參內云云。同參會河海抄被按合。

新字:中御門ノ権大納言宣胤ノ卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午、)小朝拝元三御薬、乱中至于今十余年停止節会諸社祭諸公事、悉以十余年停止。また曰く、同十日、室町殿年始参賀、毎年式日也、云云摂家〓花、乱前悉乗車也、今悉板興也、不可説之為体、末世至極無力者歟。また曰く、二月廿一日、今日春日祭也、乱中乱後、諸社祭悉停止、雖然於此祭者、為寺門、上卿并諸司等致下行、毎年両度、于今無懈怠。又曰く、三月廿六日、今日県召除目初夜也、乱中一箇度(文明七)被行、今度依宰相中将殿御昇進、為武家被申行者也、公卿殿上人悉被付少分之訪、但用脚未到之間、各可為半分云云、関白五千疋、(但半減数)執筆二千疋、其外公卿殿上人各三百疋、(但半分也)惣用三万疋云云。いく疋と有るはみな銭なり。又曰く、同四月十五日、依召参内、風雅集可書進之由、以民部卿忠富中将被仰下、御本料紙(十六帖)被下之。また曰く、九月二日、参内云云。唐鏡有校合。また、十月三日、今日禅閤参内、被談申江次第云云。同十日、為新関停廃、土一揆蜂起塞通路、北白川辺集会、焼払関所、号内裏修理料、乱後七口所所被立新関也、武家自用之外、於修理者不及沙汰、諸人之所嘆也。また、十三日、参内云云。同参会河海抄被按合。

書き下し

中御門の権大納言宣胤の卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午)、小朝拝・元三の御薬、乱中より今に至るまで十余年停止す。節会・諸社の祭・諸公事、悉く以て十余年停止す。また曰く、同十日、室町殿年始の参賀、毎年の式日なり、云々。摂家・清華、乱前は悉く車に乗るなり、今は悉く板輿なり、説くべからざるの為体、末世の至極、無力の者か。また曰く、二月廿一日、今日春日祭なり、乱中乱後、諸社の祭悉く停止す、然りと雖も此の祭に於いては、寺門として、上卿并びに諸司等に下行を致し、毎年両度、今に懈怠無し。また曰く、三月廿六日、今日県召除目の初夜なり、乱中一箇度(文明七)行わる、今度宰相中将殿の御昇進に依りて、武家として申し行わるる者なり、公卿・殿上人悉く少分の訪を付けらる、但し用脚未だ到らざるの間、各々半分たるべしと云々、関白五千疋(但し半減の数)、執筆二千疋、其の外公卿・殿上人各々三百疋(但し半分なり)、惣用三万疋と云々。いく疋と有るはみな銭なり。また曰く、同四月十五日、召しに依りて参内す、風雅集書き進ずべきの由、民部卿忠富・中将を以て仰せ下さる、御本・料紙(十六帖)之を下さる。また曰く、九月二日、参内す云々。唐鏡の校合有り。また、十月三日、今日禅閤参内し、江次第を談じ申さると云々。同十日、新関停廃の為、土一揆蜂起して通路を塞ぎ、北白川辺に集会し、関所を焼き払う、内裏修理料と号して、乱後七口所々に新関を立てらるるなり、武家自ら之を用うるの外、修理に於いては沙汰に及ばず、諸人の歎く所なり。また、十三日、参内す云々。同じく参会して河海抄を校合せらる。

現代語訳

中御門権大納言宣胤卿の日記(宣胤卿記)にこうある。「文明十二年正月一日(壬午)。小朝拝や正月三が日の御薬の儀は、応仁の乱の最中から今に至るまで十年余り取りやめになっている。節会や諸社の祭、さまざまな朝廷の行事も、ことごとく十年余り取りやめになっている。」また「同十日。室町殿(将軍)への年始の参賀、毎年の定まった日である。摂家・清華の家の人々は、乱の前はみな牛車に乗ったものだが、今はみな板輿である。言いようのない有様で、末世の極み、力のない者どもというべきか。」また「二月二十一日。今日は春日祭である。乱の最中も乱の後も、諸社の祭はことごとく取りやめになっているが、この祭については興福寺の側が上卿や諸司に費用を支給して、毎年二度、今に至るまで怠ることがない。」また「三月二十六日。今日は県召除目(地方官の任命)の初日の夜である。乱の最中には一度(文明七年)行われただけである。今回は宰相中将殿(将軍家の若君)のご昇進のために、武家として申請して行われるものである。公卿・殿上人にはみな少額の手当が付けられた。ただし費用がまだ届かないので、それぞれ半分とするという。関白に五千疋(ただし半減した数)、執筆に二千疋、そのほかの公卿・殿上人にそれぞれ三百疋(ただし半分)、総額三万疋という。」何疋とあるのはみな銭である。また「同四月十五日。お召しによって参内した。風雅集を書写して差し上げるようにとのことを、民部卿忠富と中将を通じて仰せ下され、手本と料紙(十六帖)を下された。」また「九月二日。参内した。唐鏡の校合があった。」また「十月三日。今日、禅閤(一条兼良か)が参内して、江家次第を講じ申し上げたという。同十日。新しい関所の廃止を求めて土一揆が蜂起して通路をふさぎ、北白川のあたりに集まって関所を焼き払った。内裏修理の費用と称して、乱の後、京の七つの出入口のあちこちに新しい関所が立てられたのである。武家が自分で使うほかには修理には何の手当もされず、人々の嘆くところである。」また「十三日。参内した。同じく参会して河海抄を校合された。」

解説

戦国の入口にあたる文明十二年、公家の中御門宣胤の日記から、宣長が心に留まった記事を抜き出した段である。応仁の乱で正月の儀式も節会も十年余り止まり、摂関家の人々ですら牛車に乗れず板輿で出かける。除目は将軍家の申請でやっと行われ、公卿への手当は半額、内裏修理の名目で立てた関所の銭は武家が使い込み、土一揆が関所を焼き払う。朝廷の窮乏と世の乱れが、日付入りの淡々とした記録から生々しく伝わってくる。その一方で、風雅集の書写や唐鏡・河海抄の校合といった学問の営みが続いているのも見逃せない。宣長はこうした古記録を丹念に読み、制度や故実を知る手がかりとした。記録は、飾らないからこそ時代の実相を映すのである。

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