玉勝間 / 十四の巻 新撰字鏡
新撰字鏡は、かつて世に知られぬふみなりしに、珍しく近きころ出て、古、學ヒするともは、あまねく用ふるを、あつめたる人の、拙かりけむ程、序の文のいと拙きにてしるく、すべてしるせるやう、いともいとも心得ぬ書なり。そはまづ其字ども、多くは世に目なれず、いとあやしくて、から書はさらにも云はず、ここの古へ今のふみどもにも、かつて見えぬぞ多かる。序の中に、皇國の諸書私記の字、漢國の數疏字書の文を取れる由云へるは、いかなる書どもより取出たるにか。いともいとも心得ぬ事なり。又字と注と訓と、おのおの異事にて、多くはあひかなはず。すべていとつたなき書にぞ有ける。然はあれども、後ノ世の僞ハリ書にはあらず。序に見えたる如く、寛平昌泰の頃の物とは見えたり。されば拙きながらに、時代の上りたれば、おのづから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めづらしき事多く、すべて彼抄をたすくべき書にて、物まなびせむ人の、必ず常に見べき書にぞ有ける。但し右の件の如くなれば、字又注は、信がたきこと多し。唯だ訓のかぎりをとるべきなり。又假字づかひ正しくして、皆古書と合へり。美麗を宇流和之と書る一ッたがへるは、いかなる事にか。又他の書にはもれて、世に知られぬ假字の、此書に出たるも、すくなからず。そは殊にめでたし。
新字:新撰字鏡は、かつて世に知られぬふみなりしに、珍しく近きころ出て、古、学ヒするともは、あまねく用ふるを、あつめたる人の、拙かりけむ程、序の文のいと拙きにてしるく、すべてしるせるやう、いともいとも心得ぬ書なり。そはまづ其字ども、多くは世に目なれず、いとあやしくて、から書はさらにも云はず、ここの古へ今のふみどもにも、かつて見えぬぞ多かる。序の中に、皇国の諸書私記の字、漢国の数疏字書の文を取れる由云へるは、いかなる書どもより取出たるにか。いともいとも心得ぬ事なり。又字と注と訓と、おのおの異事にて、多くはあひかなはず。すべていとつたなき書にぞ有ける。然はあれども、後ノ世の偽ハリ書にはあらず。序に見えたる如く、寛平昌泰の頃の物とは見えたり。されば拙きながらに、時代の上りたれば、おのづから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めづらしき事多く、すべて彼抄をたすくべき書にて、物まなびせむ人の、必ず常に見べき書にぞ有ける。但し右の件の如くなれば、字又注は、信がたきこと多し。唯だ訓のかぎりをとるべきなり。又仮字づかひ正しくして、皆古書と合へり。美麗を宇流和之と書る一ッたがへるは、いかなる事にか。又他の書にはもれて、世に知られぬ仮字の、此書に出たるも、すくなからず。そは殊にめでたし。
書き下し
新撰字鏡は、かつて世に知られぬふみなりしに、珍しく近きころ出でて、古え学びするともがらは、あまねく用うるを、あつめたる人の、拙かりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく、すべてしるせるよう、いともいとも心得ぬ書なり。そはまずその字ども、多くは世に目なれず、いとあやしくて、から書はさらにも云わず、ここの古え今のふみどもにも、かつて見えぬぞ多かる。序の中に、皇国の諸書私記の字、漢国の数疏字書の文を取れるよし云えるは、いかなる書どもより取り出でたるにか。いともいとも心得ぬ事なり。又字と注と訓と、おのおの異事にて、多くはあいかなわず。すべていとつたなき書にぞ有りける。然はあれども、後の世の偽り書にはあらず。序に見えたる如く、寛平昌泰の頃の物とは見えたり。されば拙きながらに、時代の上りたれば、おのずから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めずらしき事多く、すべてかの抄をたすくべき書にて、物まなびせむ人の、必ず常に見るべき書にぞ有りける。但し右の件の如くなれば、字又注は、信じがたきこと多し。ただ訓のかぎりをとるべきなり。又仮字づかい正しくして、皆古書と合えり。美麗をうるわしと書ける一つたがえるは、いかなる事にか。又他の書にはもれて、世に知られぬ仮字の、この書に出でたるも、すくなからず。そは殊にめでたし。
現代語訳
『新撰字鏡』は、かつては世に知られなかった書物であったが、珍しく近ごろ世に出て、古学をする仲間はみな広く用いている。けれども、編んだ人が拙かったらしいことは、序文がたいへん拙いことで明らかで、全体の記し方もまったく納得のいかない書である。それはまず、その字の多くが世に見慣れない、たいへん怪しいもので、中国の書物は言うまでもなく、我が国の古今の書物にもまったく見えないものが多い。序の中で、我が国の諸書や私記の字、中国の数々の注釈書や字書の文を取ったと言っているのは、いったいどういう書物から取り出したのか。まったく納得のいかないことである。また字と注と訓とが、それぞれ別々のことを言っていて、多くは互いに合っていない。全体としてたいへん拙い書である。そうではあるが、後の世の偽書ではない。序に見えるとおり、寛平・昌泰の頃のものとは見える。だから拙いながらも時代が古いので、自然と訓はみな古語で、『和名抄』よりも優れていて珍しいことが多く、すべてあの『和名抄』を補うべき書であって、学問をしようとする人が必ずいつも見るべき書である。ただし右に述べたとおりなので、字や注は信じがたいことが多い。ただ訓だけを取るべきである。また仮名遣いが正しくて、みな古い書物と合っている。「美麗」を「うるわし」と書いた一つが違っているのは、どういうことであろうか。また他の書には漏れて世に知られていない仮名が、この書に出ているのも少なくない。それはとりわけすばらしい。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 もろもろの物の事をよくしるしたる書あらまほしき事よろずの草木鳥獣、なにくれ諸の物の事を、上の代よりひろめ委しく考えて、しるしたる書こそ、有らまほしけれ。もろこしの国には、本草など云う、さるすじの書どもも、古えよりここらあなるを、御国には、わずかに源の順の和名抄のみこそは有れ。かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引き出でたるようなども正しからず、古えさまの事にうとく、すべて足らわぬ事のみなり。されどこれを置きては、古く拠るべき書の無きままに、人も我も、もはら万の物の考えの拠りどころにはするなり。近き頃、新撰字鏡と云うもの出でて、古くは有れども、事ひろからず仮初なるうえに、あやしき文字ども多くなどして、ことさまなる書なるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、多くぞ有りける。これらを置きて、後の世に作れるどもは、あまた有れども、ただみな例のから学びのかたに由れるのみにて、皇国の学びのためには、おさおさ用も無きを、今いかで古事記、書紀、万葉集など、すべて古きふみどもを先ずよく考え、中むかしの書ども、今の世のうつつの物まで、よく考え合わせて和名抄のかわりにも用うべきさまの書を、作り出でむ人もがな。
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『玉勝間』一の巻 また書紀の今の本は、もじの誤りもところどころ有り。また訓も、古言ながら、多くは今の京になりての云いざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいと古くめづらかにたふとき事もまじれるを、その訓おおくは全からず。あるいはなかば欠け、あるいはもじあやまりなど、すべてうるわしからず、しどけなきは、いといとくち惜しきわざなり。板本一つならでは世に無く、古き写し本はたいと稀なれば、これかれをくらべ見て、直すべき便りも無く、すべて今これをきよらにうるわしく、改め直さむ事は、いといとかたきわざなり。今の世の物知り人、おのれ古のこころ詞をうまらに明らめ得たりと思いがおなるも、なおひがことのみ多かれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこないぞ多かるべき。されば今これをえり改めむとならば、文字の誤りをのみただして、訓をば、暫らくもとのままにて有らむかたぞ、まさりぬべき。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』十の巻 和名抄と云ふ名和名抄は、もろもろのからぶみを引き出でて、万の物の漢名をしるせるなれば、今思うには、漢名抄とこそなづくべけれ、和名抄としもつけたるは、漢を本とし、主とはして、ここの名をば、末とし、かたわらにしたる名にて、心ゆかねども、順のみずからの序を見るに、この書はもとより、漢名につきて、その物のここの名を知らむ為に、あらわせる趣きなれば、然か名づけたるも、ことわり有ることなり。然は有れどもすべて何事も、もろこしの事にこそ、漢とも唐とも、分けて云うべきわざなれ。皇国の事には、倭、和、日本、本邦、吾国など云うこと、云うべきにあらず。そは例のもろこしにへつらいたる言にて、いとあじきなし。されば今より後、和名抄の如くなる、万の物の事しるせる書をつくらむにも、その書の名は、さらにも云わず、すべてのしるしざまも、その心して条々、たとえば阿米、漢名天云々、都知、漢名地云々とように、まずその物の名を、仮字書にてあげて、次に漢名の字をあげ、さてその事を云うべし。ことわりをもて云わば、漢名はあだし国の事なれば、あげでも有るべけれど、用うる文字みな漢もじにて、物の名も、つねにその名を書くならいなれば、さすがにそれ知らでは、万づにまどわしければ、必ずそれも、次にはあげて、あげつらうべきなり。
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『玉勝間』十一の巻 はたじね、ざる、もらふ今の俗に、機の織〓あまりの末の糸を、はたじねと云うは、新撰字鏡に、続残纏織の余りなり、志禰糸、とあるこれなり。また竹器に、ざると云う物は、同書に、寄、志太弥、また阿自加、また伊佐留、また笔、穀を盛る竹器なり、伊佐留、など有るこれなり。また物をもらうと云う言も、同じ書に、餬は寄食なり。毛良比波牟とあり。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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