玉勝間 / 十四の巻 交野の御狩
同紀に、延曆二年十月乙巳朔戊午、行幸交野、放鷹遊獵と見えたり。交野の御狩、これや始メならむ。
新字:同紀に、延暦二年十月乙巳朔戊午、行幸交野、放鷹遊猟と見えたり。交野の御狩、これや始メならむ。
書き下し
同じく紀に、延暦二年十月乙巳朔戊午、交野に行幸して、鷹を放ちて遊猟すと見えたり。交野の御狩、これや始めならむ。
現代語訳
同じ『続日本紀』に、「延暦二年十月乙巳朔の戊午の日、交野に行幸して、鷹を放って狩りをされた」と見える。交野の御狩は、これが始めであろうか。
解説
河内国の交野(今の大阪府枚方市・交野市のあたり)での天皇の鷹狩りが、文献上いつから見えるかを示した短い段である。桓武天皇は延暦二年にここで鷹狩りを行い、その後もたびたび交野に行幸した。交野はやがて皇室の狩り場として知られ、『伊勢物語』では惟喬親王が在原業平らと交野で狩りをし桜を愛でる場面が描かれ、「交野の御狩」は歌に詠まれる名所となった。宣長が歌枕や名所の起こりを確かめようとするのは、歌を正しく詠み、正しく解するためには、その土地が実際にどういう場所だったかを知る必要があると考えたからである。詩歌の背後にある土地の歴史を知ると、言葉の響きが変わって聞こえる。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つやよいのつごもりに、その日云云、その日と云える詞、いたずらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるおり、この詞いかが、真名本に無きぞ善き。もみじもと有らば、有りてもよからんか。板敷のしたに、したはしもなるべし。板敷のうちのしもつかたを云うなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの国にいきたりけるにとは、この物語の作者の、みずから行きたるよしにや。もしこの歌詠める翁の事ならば、かの翁と云う事、みちの国にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に来ませるよしを云わざれば、この詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思うに、桜花を見ありくを、桜がりと云うなれば、この条に狩と云えるは、皆桜がりの事にやあらん。上にも下にも、ただ桜の事をのみ云えればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。真名本に、かたののなぎさの院のと有り、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云う事無くて有らまほし。「思えども身をし分けねばは、分けぬにと云う意なり、この例古き歌には多し。身を分くるは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ帰らで、そこに在るを云う。
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『玉勝間』九の巻 鷹のそる同じ物語木綿しでの巻に、手に据えたる鷹をそらしたる云云。
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