玉勝間 / 十の巻 和名抄と云ふ名
和名抄は、もろもろのからぶみを引出て、萬の物の漢名をしるせるなれば、今思ふには、漢名抄とこそなづくべけれ、和名抄としもつけたるは、漢を本とし、主とはして、ここの名をば、末とし、かたはらにしたる名にて、心ゆかねども、順のみづからの序を見るに、此書はもとより、漢名につきて、其物のここの名を知らむ爲に、あらはせる趣きなれば、然か名づけたるも、ことわり有ることなり。然は有れどもすべて何事も、もろこしの事にこそ、漢とも唐とも、分て云ふべきわざなれ。皇國の事には、倭、和、日本、本邦、吾國など云ふこと、云ふべきにあらず。そは例のもろこしにへつらひたる言にて、いとあぢきなし。されば今より後、和名抄の如くなる、萬の物の事しるせる書をつくらむにも、その書の名は、さらにも云はず、すべてのしるしざまも、その心して條條、たとへば阿米漢名天云云、都知漢名地云云とやうに、まづ其物の名を、假字書にてあげて、次に漢名の字をあげ、さて其事を云ふべし。ことわりをもて云はば、漢名はあだし國の事なれば、あげでも有べけれど、用ふる文字みな漢もじにて、物の名も、つねに其名を書ならひなれば、さすがにそれ知らでは、萬づにまどはしければ、必ずそれも、次にはあげて、あげつらふべきなり。
新字:和名抄は、もろもろのからぶみを引出て、万の物の漢名をしるせるなれば、今思ふには、漢名抄とこそなづくべけれ、和名抄としもつけたるは、漢を本とし、主とはして、ここの名をば、末とし、かたはらにしたる名にて、心ゆかねども、順のみづからの序を見るに、此書はもとより、漢名につきて、其物のここの名を知らむ為に、あらはせる趣きなれば、然か名づけたるも、ことわり有ることなり。然は有れどもすべて何事も、もろこしの事にこそ、漢とも唐とも、分て云ふべきわざなれ。皇国の事には、倭、和、日本、本邦、吾国など云ふこと、云ふべきにあらず。そは例のもろこしにへつらひたる言にて、いとあぢきなし。されば今より後、和名抄の如くなる、万の物の事しるせる書をつくらむにも、その書の名は、さらにも云はず、すべてのしるしざまも、その心して条条、たとへば阿米漢名天云云、都知漢名地云云とやうに、まづ其物の名を、仮字書にてあげて、次に漢名の字をあげ、さて其事を云ふべし。ことわりをもて云はば、漢名はあだし国の事なれば、あげでも有べけれど、用ふる文字みな漢もじにて、物の名も、つねに其名を書ならひなれば、さすがにそれ知らでは、万づにまどはしければ、必ずそれも、次にはあげて、あげつらふべきなり。
書き下し
和名抄は、もろもろのからぶみを引き出でて、万の物の漢名をしるせるなれば、今思うには、漢名抄とこそなづくべけれ、和名抄としもつけたるは、漢を本とし、主とはして、ここの名をば、末とし、かたわらにしたる名にて、心ゆかねども、順のみずからの序を見るに、この書はもとより、漢名につきて、その物のここの名を知らむ為に、あらわせる趣きなれば、然か名づけたるも、ことわり有ることなり。然は有れどもすべて何事も、もろこしの事にこそ、漢とも唐とも、分けて云うべきわざなれ。皇国の事には、倭、和、日本、本邦、吾国など云うこと、云うべきにあらず。そは例のもろこしにへつらいたる言にて、いとあじきなし。されば今より後、和名抄の如くなる、万の物の事しるせる書をつくらむにも、その書の名は、さらにも云わず、すべてのしるしざまも、その心して条々、たとえば阿米、漢名天云々、都知、漢名地云々とように、まずその物の名を、仮字書にてあげて、次に漢名の字をあげ、さてその事を云うべし。ことわりをもて云わば、漢名はあだし国の事なれば、あげでも有るべけれど、用うる文字みな漢もじにて、物の名も、つねにその名を書くならいなれば、さすがにそれ知らでは、万づにまどわしければ、必ずそれも、次にはあげて、あげつらうべきなり。
現代語訳
和名抄は、諸々の漢籍を引いて、あらゆる物の漢名を記したものなので、今思うには「漢名抄」とこそ名付けるべきであって、和名抄と付けたのは、中国を本・主として、わが国の名を末・傍らにした名であって納得がいかないが、源順自身の序を見ると、この書はもともと漢名に基づいて、その物のわが国での名を知るために著した趣旨なので、そう名付けたのも道理のあることである。そうではあるが、およそ何事も、中国のことにこそ「漢」とも「唐」とも区別して言うべきなのであって、皇国のことに「倭」「和」「日本」「本邦」「吾国」などと言うのは、言うべきではない。それは例の中国にへつらった言葉で、まったく面白くない。だからこれから後、和名抄のような、あらゆる物のことを記した書を作るにしても、その書名は言うまでもなく、すべての記し方も、その心づもりで一条一条、たとえば「阿米(あめ)、漢名は天、云々」「都知(つち)、漢名は地、云々」というように、まずその物の名を仮名書きで挙げて、次に漢名の字を挙げ、そのうえでその事を述べるべきである。筋道から言えば、漢名は外国のことなので挙げなくてもよいのだが、用いる文字がみな漢字で、物の名も常にその漢字で書く習わしなので、やはりそれを知らなくてはあらゆることに迷うから、必ずそれも次には挙げて論ずべきである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十の巻 もろもろの物の事をよくしるしたる書あらまほしき事よろずの草木鳥獣、なにくれ諸の物の事を、上の代よりひろめ委しく考えて、しるしたる書こそ、有らまほしけれ。もろこしの国には、本草など云う、さるすじの書どもも、古えよりここらあなるを、御国には、わずかに源の順の和名抄のみこそは有れ。かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引き出でたるようなども正しからず、古えさまの事にうとく、すべて足らわぬ事のみなり。されどこれを置きては、古く拠るべき書の無きままに、人も我も、もはら万の物の考えの拠りどころにはするなり。近き頃、新撰字鏡と云うもの出でて、古くは有れども、事ひろからず仮初なるうえに、あやしき文字ども多くなどして、ことさまなる書なるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、多くぞ有りける。これらを置きて、後の世に作れるどもは、あまた有れども、ただみな例のから学びのかたに由れるのみにて、皇国の学びのためには、おさおさ用も無きを、今いかで古事記、書紀、万葉集など、すべて古きふみどもを先ずよく考え、中むかしの書ども、今の世のうつつの物まで、よく考え合わせて和名抄のかわりにも用うべきさまの書を、作り出でむ人もがな。
-
『玉勝間』十一の巻 皇国の学者のあやしき癖すべて何事も、おのが国の事にこそ従うべけれ、そを捨てて、他の国の事に従うべきにはあらざるを、かえりて他の国の事に従うを、かしこきわざとして、皇国のことに従うをば、つたなきわざと心得ためるは、皇国の学者の、あやしき癖なり。はかなき事ながらたとえば、もろこしの国を、もろこしともからとも云い、漢文には、漢とも唐とも書くぞ、皇国の事なるを、然か云うをば拙しとして、中華中国など云うを、かしこき事と心得たるひがことは、馭戎慨言にくわしく論いたれば、今さらに云わず。また中華中国などは、云うまじき事と、物のこころをわきまえたる人はた、なお漢もしは唐など云うをば、つたなしとや思うらむ、震旦支那など書くたぐいもあなるは、中華中国など云うにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる国より、附けたる名なれば、そもなおおのが国の事を捨てて人の国の事に従うにぞ有りける。もし漢と云い唐とも云わむを、おかしからずと思わば、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書かむに、何事かあらむ。かく己が国の事をたてたらむこそは、雄々しき文ならめ。他の国のことにへつらいよりて書かむは、めめしく拙きわざにぞ有りける。
-
『玉勝間』二の巻 儒者名をみだる事皇国は、物のありさまは、古とかわりきぬる事も、名は、物のうつり行く、その時時のさまには従わずして、今の世とても万になお古のを守り給うなるは、いともいとも有りがたく、孔丘が心もていわば、名のいと正しきにこそ有りけれ。さるをかえりて正しからずとしも云うは、何につけても、あながちに皇国を云いおとさむとする心のみ進めるからに、そのひがことなる事をも、われながら覚えざるなめり。
-
『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
-
『玉勝間』十四の巻 今の世人の名の事近き世の人の名には、名に似つかわしからぬ字をつく事多し。又、すべて名の訓は、世の常ならぬが多きうちに、近き頃の名には、殊にあやしき字、あやしき訓有りて、いかにとも訓み難きぞ多く見ゆる。すべて名は、いかにも安らかなる文字の、訓のよく知られたるこそ善けれ。これに名と云うは、いわゆる名乗り実名なり。某右衛門某兵衛の類いの名の事にはあらず。さて又その人の性と云う物にあわせて、名をつくるは、云うにも足らぬ、愚かなるならいなり。すべて人に、火性水性など、性と云う事は、更に無き事なり。又名のもじの、反切と云う事をえらぶも、いと愚かなり。反切と云うものは、ただ字の音をさとさむ料にこそ有れ、いかでかは人の名、これにあずからむ。
-
『玉勝間』十四の巻 新撰字鏡新撰字鏡は、かつて世に知られぬふみなりしに、珍しく近きころ出でて、古え学びするともがらは、あまねく用うるを、あつめたる人の、拙かりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく、すべてしるせるよう、いともいとも心得ぬ書なり。そはまずその字ども、多くは世に目なれず、いとあやしくて、から書はさらにも云わず、ここの古え今のふみどもにも、かつて見えぬぞ多かる。序の中に、皇国の諸書私記の字、漢国の数疏字書の文を取れるよし云えるは、いかなる書どもより取り出でたるにか。いともいとも心得ぬ事なり。又字と注と訓と、おのおの異事にて、多くはあいかなわず。すべていとつたなき書にぞ有りける。然はあれども、後の世の偽り書にはあらず。序に見えたる如く、寛平昌泰の頃の物とは見えたり。されば拙きながらに、時代の上りたれば、おのずから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めずらしき事多く、すべてかの抄をたすくべき書にて、物まなびせむ人の、必ず常に見るべき書にぞ有りける。但し右の件の如くなれば、字又注は、信じがたきこと多し。ただ訓のかぎりをとるべきなり。又仮字づかい正しくして、皆古書と合えり。美麗をうるわしと書ける一つたがえるは、いかなる事にか。又他の書にはもれて、世に知られぬ仮字の、この書に出でたるも、すくなからず。そは殊にめでたし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る