玉勝間 / 十四の巻 後撰集拾遺集のうた
後撰集冬ノ歌、「この月の年のあまりにたたざらば、鶯ははや鳴きぞしなまし、此歌は、十二月に閏月の有けるに詠めるにて、此月は閏十二月なり。年のあまりにたつとは、十二月の一年に餘りて、閏月の有るよしなり。立ッとは、月の來るを云ふ。一うたの意は、此の閏月の無くは、はや正月なるべければ、鶯は鳴べきものをと詠めるなり。抄の說誤なり。三の句たらざらばと有本も、誤なり。又戀ノ四に、「大嶋の水をはこびし早船の、はやくも人に逢見てしがな、初ノ句ののもじ、今ノ本に、にと書るは誤なり。又二の句、水をば戀しと書るも、ひがことなり。船して〓水を京に運びし例、古事記ノ仁德天皇ノ段に見ゆ。又戀ノ五に、「かくばかり深き色にもうつろふを猶君きくの花といはなむ、きくとは、諾と云ひて、こなたの云ふことを、聽いるる意に云ひかけたるなり。又雜ノ二に、みかどに奉り給ひける嵯峨ノ后「うつろはぬ心の深く有ければ、ここらある花春にあへること、上ノ句は、御みづからの、みかどをおき奉りて、外へ心をうつし給はぬよしなり。下ノ句は、ここらの女御更衣たちおはする中に、とり分て、大御めぐみを深くかうふる事よとなり。四の句、本に、ちる花とあるは誤なり。
新字:後撰集冬ノ歌、「この月の年のあまりにたたざらば、鶯ははや鳴きぞしなまし、此歌は、十二月に閏月の有けるに詠めるにて、此月は閏十二月なり。年のあまりにたつとは、十二月の一年に余りて、閏月の有るよしなり。立ッとは、月の来るを云ふ。一うたの意は、此の閏月の無くは、はや正月なるべければ、鶯は鳴べきものをと詠めるなり。抄の説誤なり。三の句たらざらばと有本も、誤なり。又恋ノ四に、「大嶋の水をはこびし早船の、はやくも人に逢見てしがな、初ノ句ののもじ、今ノ本に、にと書るは誤なり。又二の句、水をば恋しと書るも、ひがことなり。船して〓水を京に運びし例、古事記ノ仁徳天皇ノ段に見ゆ。又恋ノ五に、「かくばかり深き色にもうつろふを猶君きくの花といはなむ、きくとは、諾と云ひて、こなたの云ふことを、聴いるる意に云ひかけたるなり。又雑ノ二に、みかどに奉り給ひける嵯峨ノ后「うつろはぬ心の深く有ければ、ここらある花春にあへること、上ノ句は、御みづからの、みかどをおき奉りて、外へ心をうつし給はぬよしなり。下ノ句は、ここらの女御更衣たちおはする中に、とり分て、大御めぐみを深くかうふる事よとなり。四の句、本に、ちる花とあるは誤なり。
書き下し
後撰集冬の歌、「この月の年のあまりにたたざらば、鶯ははや鳴きぞしなまし、この歌は、十二月に閏月の有りけるに詠めるにて、この月は閏十二月なり。年のあまりにたつとは、十二月の一年に余りて、閏月の有るよしなり。立つとは、月の来るを云う。一うたの意は、この閏月の無くは、はや正月なるべければ、鶯は鳴くべきものをと詠めるなり。抄の説誤りなり。三の句たらざらばと有る本も、誤りなり。又恋の四に、「大島の水をはこびし早船の、はやくも人に逢い見てしがな、初めの句ののもじ、今の本に、にと書けるは誤りなり。又二の句、水をば恋しと書けるも、ひがことなり。船して清水を京に運びし例、古事記の仁徳天皇の段に見ゆ。又恋の五に、「かくばかり深き色にもうつろうを猶君きくの花といわなむ、きくとは、諾と云いて、こなたの云うことを、聴きいるる意に云いかけたるなり。又雑の二に、みかどに奉り給いける嵯峨の后「うつろわぬ心の深く有りければ、ここらある花春にあえること、上の句は、御みずからの、みかどをおき奉りて、外へ心をうつし給わぬよしなり。下の句は、ここらの女御更衣たちおわする中に、とり分けて、大御めぐみを深くこうむる事よとなり。四の句、本に、ちる花とあるは誤りなり。
現代語訳
『後撰集』冬の歌「この月が年の余りに立たなかったならば、鶯はもう鳴いていたであろうに」。この歌は十二月の後に閏月があった年に詠んだもので、この月は閏十二月である。「年の余りに立つ」とは、十二月で一年が終わらずに余って、閏月があるという意味である。「立つ」とは月が来ることを言う。一首の意味は、この閏月がなかったならもう正月のはずだから、鶯は鳴くだろうに、と詠んだのである。注釈書の説は誤りである。第三句を「たらざらば」とする本も誤りである。また恋の四に「大島の水を運んだ早船のように、早くあの人に逢いたいものだ」。初句の「の」の字を今の本で「に」と書いているのは誤りである。また第二句を「水をば恋し」と書いているのも間違いである。船で清水を都へ運んだ例は、『古事記』の仁徳天皇の段に見える。また恋の五に「これほど深い色にも移り変わるのに、それでもあなたは菊の花のように『聞く』と言ってほしい」。「きく」とは「諾(承知する)」と言って、こちらの言うことを聞き入れるという意味に言い掛けたのである。また雑の二に、帝に差し上げなさった嵯峨の后の歌「移ろわない心が深くあったので、たくさんある花の中で、この花が春にめぐり会えたことよ」。上の句は、ご自身が帝を差し置いて、ほかへ心を移しなさらないという意味である。下の句は、多くの女御・更衣たちがいらっしゃる中で、とりわけ帝の深いご寵愛をこうむったことよ、というのである。第四句を本で「ちる花」としているのは誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 後撰集拾遺集のうた一本に、ある花と有るぞよき。拾遺集別に、「別るるを惜しとぞ思う、つるぎばの身をよりくだく心地のみして、惜しを鴛に云いかけて、剣羽と云えり。鴛にさ云う羽あればなり。さてこはただ剣の身とつづけむ料のみなり。よりくだくへ懸かれる事にはあらず。この所よくせずはまがいぬべし。よりくだくとは、緒などのよらるる如く、物のくだくる如く、苦しきよしなり。さて思うを、思いと作る本は誤りなり。思いつると云い懸けたるにはあらず。又三の句ののもじ、にと書けるもひがことなり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ歌によりて思うに、とぶらいたりける人の、など有るべきにや、「おもおえず袖に云云、袖に湊のと云うこと、聞えず。又真名本に、袖に浪渡のと書けるは、下の句とむげにかけあわず、ひが事なり。浪渡は、異所にも斯く書きて涙なり。されば思うに、こは袖の湊のなるべし。たとい袖の湊と云う名所は無くとも、涙の深き事を、下の句の縁に、然か云いつべき物なり、のをにに誤れるなるべし。女の手あらうところに云云、ここの文きこえず。真名本にて聞えたり。但しかの本も、泣く影のうつりけるを見てちょう下に、女と云う言無くてはいかが。たち聞きても、かの本に聞きつけてと有るぞ善き。「水口に我や云云、この歌の初めの二句の注ども、いずれもいささかたがえり。こはさだめてわが泣く影も、ともに見えやすらんと云えるなり。こうように見ざれば、下の句にかなわず。わが影の見ゆるにや有らむと云うとは異なり。「ならわねば云云、この歌、詞たらわで、聞えぬ歌なり。とかくなまめくあいだに、かのいたる蛍を云云、かくては、なまめくは、いたるには有らで、異人と聞えていかが。とかくなまめきつつ、蛍をとりて、などこそ有るべけれ。
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『玉勝間』十の巻 千鳥にをちかへりと詠める歌おちかえりと云う事は、大かた郭公ならでは詠まぬようなるに、拾遺集雑上に能宣、「暁のねさめの千鳥たがためか佐保の川原におちかえりなく、と有り。続後拾遺集冬にも、六条の内大臣、「明石がたとわたる千鳥おちかえりいく浦浪をかけて鳴らん、これは拾遺なる歌によりて、詠み給えるにや。右の歌どもの外にも有るべきか、今は見あたりたるを出せるのみなり。閏五月郭公と云う題にて、俊頼の朝臣、「やよやまたきなけみそらの時鳥五月だにこそおちかえりつれ、新勅撰集に入れり。これは郭公によりたれど、五月をおちかえりと詠めり。
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり然れども大かた光孝天皇宇多天皇の御代のころよりこなたの歌は、万葉なるとはいたくかはりて、後世風の方にちかきさまなれば、此集をば、姑く後世風の始めの、めでたき歌とさだめて、明暮にこれを見て、今の京となりてよりこなたの、歌といふ物のすべてのさまを、よく心にしむべき也、次に後撰集拾遺集は、えらびやう甚ダあらくみだりにして、えもいはぬわろき歌の多き也、然れどもよき歌も又おほく、中にはすぐれたるもまじれり、さて次に後拾遺集よりこなたの、代々の撰集ども、つぎつぎに盛衰善悪さまざまあれども、そをこまかにいはむには、甚ダ事長ければ、今は省きて、その大抵をつまみていはば、其間ダに新古今集は、そのころの上手たちの歌どもは、意も詞もつゞけざまも、一首のすがたも、別に一ツのふりにて、前にも後にもたぐひなく、其中に殊によくとゝのひたるは、後世風にとりては、えもいはずおもしろく心ふかくめでたし、そもそも上代より今の世にいたるまでを、おしわたして、事のたらひ備りたる、歌の真盛は、
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つその故は、待つにと云うまでは、ただ一度のさまを云える文なるに、たびたび過ぎと続けて云いては、俄なり。さればこは、よろこびて待つに来ず、さること度々なりければ、などように有るべき所なり。むかし男かたいなかに住みけり。真名本に、昔男女と有るぞ善き。男とのみにては、次なる男と云う言も余り、また待ちわびたりけるにと云うも、上に女と云う言無くては、聞えず。「梓弓真弓つき弓云云、この歌、初めの二句、いかなる意にか、さらに聞えず。又真名本に、神言忠令見と書けるは、もとより借字ながら、いとつたなき書きざまなり。下の句は、昔わがうるわしみせしがごとく、今の男に、うるわしみせよと云えるなり。「見るめなきわが身を云云、この歌のこと、古今集の遠鏡に云えり。さてこの歌をここに出だせるは、下の句、はしの詞にかなわず聞ゆ。又色このみなる女と云うことも、ここに有るべき詞に有らず。これらによりて思うに、これは、「秋の野にちょう歌の次に、多く詞落ちて、もと上とは別条にぞ有りけむ。え得ずなりにける事、わびたりける人の云云、真名本には、わびを慙と書けり、共にかなえりとも聞えず。
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