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玉勝間 / 六の巻 かなづかひ

假字づかひは、近き世明らかになりて、古、學するかぎりの人は、心すめれば、をさをさあやまる事無きを、宣長が弟子共の、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤リのみ多かるは、又如何にぞや。抑てにをはのととのへなどは、うひ學びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、假字づかひは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらはべも、いとよくわきまふべき業なるを、猶とりはづして、書キひがむるは、かへすがへす如何にぞや。これはた心とどめず、又ひたぶるに學びおやにすがりて、たがへらむは、直さるべしと、思ひおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさへぞ覺ゆる。然か人にのみ縋りたらんには、つひに假字づかひをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればいゐえゑおを、又はひふへほわゐうゑを、又しちすつの濁音など、いささかも疑はしくおぼえむ假字は、わづらはしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、爲得る事かたかっべきわさぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云ふかひ無からじやは。

新字:仮字づかひは、近き世明らかになりて、古、学するかぎりの人は、心すめれば、をさをさあやまる事無きを、宣長が弟子共の、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤リのみ多かるは、又如何にぞや。抑てにをはのととのへなどは、うひ学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかひは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらはべも、いとよくわきまふべき業なるを、猶とりはづして、書キひがむるは、かへすがへす如何にぞや。これはた心とどめず、又ひたぶるに学びおやにすがりて、たがへらむは、直さるべしと、思ひおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさへぞ覚ゆる。然か人にのみ縋りたらんには、つひに仮字づかひをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればいゐえゑおを、又はひふへほわゐうゑを、又しちすつの濁音など、いささかも疑はしくおぼえむ仮字は、わづらはしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかっべきわさぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云ふかひ無からじやは。

書き下し

仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。

現代語訳

仮名遣いは近ごろ明らかになって、古学をする限りの人は心がけているので、めったに誤ることはないのに、宣長の弟子たちがいつも歌を書き連ねて見せるのを見ると、誤りばかり多いのは、またどうしたことか。そもそも「てにをは」の整えなどは、初学の力の及ばないところがあるものなので、誤っても罪は許されるが、仮名遣いは、今は『和字正濫鈔』あるいは『古言梯』などを見さえすれば、まるで物を知らない子どもでもよくわきまえられることなのに、なおうっかりして書き誤るのは、かえすがえすどうしたことか。これもまた心に留めず、またひたすら師にすがって、間違っていたら直してもらえるだろうと思い怠って、自分の力を入れないからのことであるので、一方では憎らしくさえ思われる。そのように人にばかりすがっていたのでは、ついに仮名遣いを知る時もなく終わってしまうだろう。だから「い・ゐ・え・ゑ・お・を」、または「ひ・ふ・へ・ほ」と「わ・ゐ・う・ゑ・を」、また「し・ち・す・つ」の濁音など、少しでも疑わしく思われる仮名は、面倒でも、それを記した書を書くたびごとに開いて見て、確かに頭に浮かぶようにならなければ、やめてはならない。何事も自分の力を入れなければ、成し遂げることは難しいものである。人の子が年をとるまで親の手を離れることを知らないのは、まことに情けないことではないか。

解説

仮名遣いを誤る弟子たちを、前段に続いて叱った一段である。契沖の和字正濫鈔や楫取魚彦の古言梯によって、古の仮名遣いは明らかになっていた。てにをはの誤りは初学者には無理もないが、仮名遣いは本を見れば子どもでも分かる、それを誤るのは師が直してくれると甘えて自分で調べないからだ、と宣長は言う。そして、疑わしい仮名は面倒でも書くたびに本を開いて確かめよ、と具体的な方法まで示す。年をとっても親の手を離れない子のようでは情けない、というたとえは厳しいが的確である。師に頼るのは学びの始まりであって、終わりではない。自分で調べる手間を惜しむ者は、いつまでたっても身につかない。

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