玉勝間 / 十の巻 もろもろの物の事をよくしるしたる書あらまほしき事
よろづの草木鳥獸、なにくれ諸の物の事を、上の代よりひろめ委しく考へて、しるしたる書こそ、有らまほしけれ。もろこしの國には、本草など云ふ、さるすぢの書どもも、古へよりここらあッなるを、御國には、わづかに源ノ順の和名抄のみこそは有れ。かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引出たるやうなども正しからず、古へさまの事にうとく、すべて足らはぬ事のみなり。されど是れを置きては、古く據るべき書の無きままに、人も我も、もはら萬の物の考への據りどころにはするなり。近き頃、新撰字鏡と云ふもの出て、古くは有れども、事ひろからず假初なるうへに、あやしき文字ども多くなどして、ことさまなる書なるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、多くぞ有ける。これらを置きて、後の世に作れるどもは、あまた有れども、唯だみな例のから學びのかたに由れるのみにて、皇國の學びのためには、をさをさ用も無きを、今いかで古事記、書紀、萬葉集など、すべて古きふみどもを先づよく考へ、中むかしの書ども、今の世のうつつの物まで、よく考へ合せて和名抄のかはりにも用ふべきさまの書を、作り出む人もがな。
新字:よろづの草木鳥獣、なにくれ諸の物の事を、上の代よりひろめ委しく考へて、しるしたる書こそ、有らまほしけれ。もろこしの国には、本草など云ふ、さるすぢの書どもも、古へよりここらあッなるを、御国には、わづかに源ノ順の和名抄のみこそは有れ。かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引出たるやうなども正しからず、古へさまの事にうとく、すべて足らはぬ事のみなり。されど是れを置きては、古く拠るべき書の無きままに、人も我も、もはら万の物の考への拠りどころにはするなり。近き頃、新撰字鏡と云ふもの出て、古くは有れども、事ひろからず仮初なるうへに、あやしき文字ども多くなどして、ことさまなる書なるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、多くぞ有ける。これらを置きて、後の世に作れるどもは、あまた有れども、唯だみな例のから学びのかたに由れるのみにて、皇国の学びのためには、をさをさ用も無きを、今いかで古事記、書紀、万葉集など、すべて古きふみどもを先づよく考へ、中むかしの書ども、今の世のうつつの物まで、よく考へ合せて和名抄のかはりにも用ふべきさまの書を、作り出む人もがな。
書き下し
よろずの草木鳥獣、なにくれ諸の物の事を、上の代よりひろめ委しく考えて、しるしたる書こそ、有らまほしけれ。もろこしの国には、本草など云う、さるすじの書どもも、古えよりここらあなるを、御国には、わずかに源の順の和名抄のみこそは有れ。かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引き出でたるようなども正しからず、古えさまの事にうとく、すべて足らわぬ事のみなり。されどこれを置きては、古く拠るべき書の無きままに、人も我も、もはら万の物の考えの拠りどころにはするなり。近き頃、新撰字鏡と云うもの出でて、古くは有れども、事ひろからず仮初なるうえに、あやしき文字ども多くなどして、ことさまなる書なるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、多くぞ有りける。これらを置きて、後の世に作れるどもは、あまた有れども、ただみな例のから学びのかたに由れるのみにて、皇国の学びのためには、おさおさ用も無きを、今いかで古事記、書紀、万葉集など、すべて古きふみどもを先ずよく考え、中むかしの書ども、今の世のうつつの物まで、よく考え合わせて和名抄のかわりにも用うべきさまの書を、作り出でむ人もがな。
現代語訳
あらゆる草木・鳥獣、そのほか諸々の物のことを、上代から広く詳しく考えて記した書物こそ、あってほしいものである。中国には本草などという、そうした方面の書物も昔からたくさんあるそうだが、わが国にはわずかに源順(みなもとのしたごう)の和名抄(和名類聚抄)があるだけである。その書のありさまは、全体にひどく締まりがなく、漢籍を引いている仕方なども正確でなく、古代のことに疎く、すべて不十分なことばかりである。けれどもこれを除いては、古くて拠りどころにできる書が無いので、人も私も、もっぱらあらゆる物を考える拠りどころにしているのである。近頃、新撰字鏡というものが世に出て、古くはあるけれども、扱う範囲が広くなく間に合わせのようなものであるうえに、妙な文字なども多くて、毛色の違った書であるが、それでもさすがに和名抄を補えることは多くあった。これらを除いて、後世に作られたものはたくさんあるが、ただみな例の漢学のほうに基づいているだけで、皇国の学問のためにはほとんど役に立たない。今なんとかして、古事記・日本書紀・万葉集など、すべての古い書物をまずよく考え、中古の書物から今の世の実物まで、よく考え合わせて、和名抄の代わりにも使えるような書を作り出す人がいてほしいものだ。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 和名抄と云ふ名和名抄は、もろもろのからぶみを引き出でて、万の物の漢名をしるせるなれば、今思うには、漢名抄とこそなづくべけれ、和名抄としもつけたるは、漢を本とし、主とはして、ここの名をば、末とし、かたわらにしたる名にて、心ゆかねども、順のみずからの序を見るに、この書はもとより、漢名につきて、その物のここの名を知らむ為に、あらわせる趣きなれば、然か名づけたるも、ことわり有ることなり。然は有れどもすべて何事も、もろこしの事にこそ、漢とも唐とも、分けて云うべきわざなれ。皇国の事には、倭、和、日本、本邦、吾国など云うこと、云うべきにあらず。そは例のもろこしにへつらいたる言にて、いとあじきなし。されば今より後、和名抄の如くなる、万の物の事しるせる書をつくらむにも、その書の名は、さらにも云わず、すべてのしるしざまも、その心して条々、たとえば阿米、漢名天云々、都知、漢名地云々とように、まずその物の名を、仮字書にてあげて、次に漢名の字をあげ、さてその事を云うべし。ことわりをもて云わば、漢名はあだし国の事なれば、あげでも有るべけれど、用うる文字みな漢もじにて、物の名も、つねにその名を書くならいなれば、さすがにそれ知らでは、万づにまどわしければ、必ずそれも、次にはあげて、あげつらうべきなり。
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『玉勝間』十四の巻 新撰字鏡新撰字鏡は、かつて世に知られぬふみなりしに、珍しく近きころ出でて、古え学びするともがらは、あまねく用うるを、あつめたる人の、拙かりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく、すべてしるせるよう、いともいとも心得ぬ書なり。そはまずその字ども、多くは世に目なれず、いとあやしくて、から書はさらにも云わず、ここの古え今のふみどもにも、かつて見えぬぞ多かる。序の中に、皇国の諸書私記の字、漢国の数疏字書の文を取れるよし云えるは、いかなる書どもより取り出でたるにか。いともいとも心得ぬ事なり。又字と注と訓と、おのおの異事にて、多くはあいかなわず。すべていとつたなき書にぞ有りける。然はあれども、後の世の偽り書にはあらず。序に見えたる如く、寛平昌泰の頃の物とは見えたり。されば拙きながらに、時代の上りたれば、おのずから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めずらしき事多く、すべてかの抄をたすくべき書にて、物まなびせむ人の、必ず常に見るべき書にぞ有りける。但し右の件の如くなれば、字又注は、信じがたきこと多し。ただ訓のかぎりをとるべきなり。又仮字づかい正しくして、皆古書と合えり。美麗をうるわしと書ける一つたがえるは、いかなる事にか。又他の書にはもれて、世に知られぬ仮字の、この書に出でたるも、すくなからず。そは殊にめでたし。
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『玉勝間』一の巻 また続紀よりつぎつぎの史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤りことに多く、脱けたることなども有り。そもそも、書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、続紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなること無く、ただ世のつねのから書の訓の如くにてよろしければ、今いかで三代実録までを、皆古き善き本を、これかれ読み合わせて、善きをえらびて、うるわしきえり板を成しおかまほしきわざなり。
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『玉勝間』十の巻 もろもろの物の事をよくしるしたる書あらまほしき事おのれ早くより、せちにこの心ざし有れど、たやすからぬ業にて、物のかたてには、えしも物せず。今は残りのよわいも、いと少なき心地すれば、思いたえにたれば、今より後の人をだにと、いざない置くになん。この六七年ばかりさきに、越前国の府中の人とて、伊藤東四郎多羅と云える、まだ若きおのこなりけるが、とぶらい来て、語りけるは、多羅が父は、いわゆる物産の学びを好みて、ものしけるままに、多羅も、わらわなりし程より、そのすじに心寄せけるを、もろこしさまの事は、誰も誰も物するわざにて、人のふみはた世にともしからぬを、皇国のこのすじの事、善くしるしたるは、いまだ見え聞えざなれば、多羅は、今より皇国のこの学びを、物してんと心ざして、かつがつ考えたる事どもも有るなりとて、一巻二巻書き集めたるをも、とうでて見せけるを、はしばしいささか見たりしに、おのが思うにかなえるさまにて、考えも、よろしく見えしかば、これ如何で怠らずつとめて、し果ててよと、ねんごろに、かえすがえす勧め遣りしを、さて後いかに成りぬらむ、音も無し。
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『玉勝間』十の巻 物まなびの心ばへ皇国の学びとて、ことにする事は無くて、昔は、ただから学びをのみしける程に、世々をふるままに、古えの事は、ようようにうとくのみ成りゆき、から国の事は、ようように親しくなりもて来つつ、ついにその心は、もはらからざまにうつり果てて、上つ代の事は、物の意はさらにも云わず、言葉だに、聞きしらぬ異国のさえずりを聞くがごと、物うとくぞなりにける。かくて後にいたりて、皇国の学を、もはらとする事も始まりつれども、しか漢意の、久しくしみ附きたる人心にし有れば、ただ名のみこそ、みくにの学びには有りけれ、云いと云い、思いと思う事は、なおみなからにぞ有りけるを、みずからも、さは覚えざるなめり。されば近き世、学びの道ひらけて、万づさかしくなりぬるにつけても、なかなかにそのからごころのみ、深く盛りには成りて、古の意は、いよいよ遥かになむなりにけるを、この近き頃になりてぞ、そこに心つきぬる人の出で来そめて、世は皆からなる事をさとりて、人も我も、古えの心をたずぬる道の、明り初めぬる、しかすがに神直毘大直毘の神のましましける世は、なお行くさきいと頼もしくなむ。
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『玉勝間』一の巻 古書どもの事古きふみどもの、世にたえてつたわらぬは、万よりもくち惜しく歎かわしきわざなり。釈日本紀、仙覚が万葉の抄などを見るに、そのほどまでは、国々の風土記も大かたそなわりて、伝われりと見えたり。釈に引きたる上宮記と云う物は、いささかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きわふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有りけむ。また風土記は、いとたふとき物なるに、今はただ出雲一国ののみ、またくては残りて、ほかはみな絶えぬるは、かえすがえすもくち惜し。さるは応仁よりこなた、打ち続きたるみやこの乱れに、ふるき書どもも、みな焼けうせ、あるいは散りぼい失せぬるなるべし。そも今の世のごと、国々にも学問するともがら多く、書どもようじ持たる者おおからましかば、むげに絶えはつる事はあらじを、そのかみはいまだいなかには、学問するともがらもいといと稀れにして、京ならでは、おさおさ書どもも、無かりしが故なめり。されどから国のふるき書どもはしも、これかれといなかにも残れるが有るは、むねとからを好むよのならいなるが故なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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