玉勝間 / 五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ
やよひのつごもりに、その日云云、その日と云へる詞、いたづらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるをり、此詞いかが、眞名本に無きぞ善き。もみぢもと有らば、有てもよからんか。板敷のしたに、シタハシモなるべし。板敷のうちのしもつかたを云ふなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの國にいきたりけるにとは、此物語の作者の、みづから行たるよしにや。もし此歌詠める翁の事ならば、かの翁と云ふ事、みちの國にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に來ませるよしを云はざれば、此詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思ふに、櫻花を見ありくを、櫻かりと云ふなれば、此條に狩と云へるは、皆櫻かりの事にやあらん。上にも下にも、唯だ櫻の事をのみ云へればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。眞名本に、かたののなぎさの院のと有、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云ふ事無くて有らまほし。「思へども身をし分ねばは、分けぬにと云ふ意なり、此例古き歌には多し。身を分るは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ歸らで、そこに在るを云ふ。
新字:やよひのつごもりに、その日云云、その日と云へる詞、いたづらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるをり、此詞いかが、真名本に無きぞ善き。もみぢもと有らば、有てもよからんか。板敷のしたに、シタハシモなるべし。板敷のうちのしもつかたを云ふなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの国にいきたりけるにとは、此物語の作者の、みづから行たるよしにや。もし此歌詠める翁の事ならば、かの翁と云ふ事、みちの国にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に来ませるよしを云はざれば、此詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思ふに、桜花を見ありくを、桜かりと云ふなれば、此条に狩と云へるは、皆桜かりの事にやあらん。上にも下にも、唯だ桜の事をのみ云へればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。真名本に、かたののなぎさの院のと有、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云ふ事無くて有らまほし。「思へども身をし分ねばは、分けぬにと云ふ意なり、此例古き歌には多し。身を分るは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ帰らで、そこに在るを云ふ。
書き下し
やよいのつごもりに、その日云云、その日と云える詞、いたずらにて拙なし。紅葉のちくさに見ゆるおり、この詞いかが、真名本に無きぞ善き。もみじもと有らば、有りてもよからんか。板敷のしたに、したはしもなるべし。板敷のうちのしもつかたを云うなり。板敷のしたには、人の居るべきにも有らず。みちの国にいきたりけるにとは、この物語の作者の、みずから行きたるよしにや。もしこの歌詠める翁の事ならば、かの翁と云う事、みちの国にの上に無くてはいかがなり。かりはねんごろにもせで、上に、狩に来ませるよしを云わざれば、この詞ゆくりなく聞ゆ。これによりて思うに、桜花を見ありくを、桜がりと云うなれば、この条に狩と云えるは、皆桜がりの事にやあらん。上にも下にも、ただ桜の事をのみ云えればなり。かたののなぎさの家その院の云云、こは聞えぬ詞なり。真名本に、かたののなぎさの院のと有り、よろし。かのうまのかみ詠みて奉りける、かのうまのかみと云う事無くて有らまほし。「思えども身をし分けねばは、分けぬにと云う意なり、この例古き歌には多し。身を分くるは、身を二つに分くるなり。めかれせぬは、雪故にえ帰らで、そこに在るを云う。
現代語訳
「やよいのつごもりに、その日」云々。「その日」という言葉は無駄で拙い。「紅葉の千種に見ゆるおり」。この言葉はどうか。真名本にないのがよい。「もみじも」とあるなら、あってもよいだろうか。「板敷のしたに」の「した」は「しも」であろう。板敷の内の下手のほうを言うのである。板敷の下には人がいるはずもない。「みちの国にいきたりけるに」とは、この物語の作者が自分で行ったということであろうか。もしこの歌を詠んだ翁のことなら、「かの翁」ということが「みちの国に」の上になくてはどうかと思う。「狩はねんごろにもせで」は、前に狩に来られたことを言っていないので、この言葉が唐突に聞こえる。これによって考えると、桜の花を見て歩くことを「桜狩」と言うのだから、この条で「狩」と言っているのは、みな桜狩のことであろうか。前にも後にも、ただ桜のことばかり言っているからである。「交野の渚の家、その院の」云々は、意味の通らない言葉である。真名本に「交野の渚の院の」とあるのがよい。「かの馬の頭詠みて奉りける」は、「かの馬の頭」ということがないほうがよい。「思えども身をし分けねば」は、「分けぬのに」という意味である。この例は古い歌に多い。「身を分くる」は、身を二つに分けることである。「めかれせぬ」は、雪のために帰ることができず、そこにいることを言う。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つうまのはなむけせんとて、人を待ちけるに云云、人をと云うこと、あまれり、真字本には無し。但し上なる、物へいく人にと云う詞の、無き本も有り。それは人を待ちけるにてよろし。又男、「行く水と過ぐるよわいと云云、この歌この条にかなわず、真名本に無きぞ善き。又男女の忍びありきしける云云、この詞も、このくだりにかなわず。人知れぬ物思いけり、この詞いたずらなり。むかし心つきて云云、心つきて、聞えず。真名本に、栄而と有るも心得ず。田からんとては、男の事にて、この男の田からむとてあるを見て、と云う意なり。かくてものいたくやみて云云、この事、上の詞歌に似つかず、別儀なりしが、詞ども落ちて、乱れたるなるべし。昔年ごろ音づれざりける女、昔の下に、男のと云う事無くては、足らず。又よさりこの有りつる云云の上にも、その男、或いはその人など有るべきことなり。「これやこの我に云云、この歌、おうみをと云うこと、聞えず。近江に云い掛けたりとせんも、しいごとなり。もし然らば、上に近江の国の事無くては、ととのわず。又下の句も、これやこのと云えるにかなわず。昔よごころつける女云云、これは、女にてはかなわず、真名本に、嫗女と有るぞよろしき。仮字の乱れたるより、斯かるまぎれもおのずからなり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つその故は、待つにと云うまでは、ただ一度のさまを云える文なるに、たびたび過ぎと続けて云いては、俄なり。さればこは、よろこびて待つに来ず、さること度々なりければ、などように有るべき所なり。むかし男かたいなかに住みけり。真名本に、昔男女と有るぞ善き。男とのみにては、次なる男と云う言も余り、また待ちわびたりけるにと云うも、上に女と云う言無くては、聞えず。「梓弓真弓つき弓云云、この歌、初めの二句、いかなる意にか、さらに聞えず。又真名本に、神言忠令見と書けるは、もとより借字ながら、いとつたなき書きざまなり。下の句は、昔わがうるわしみせしがごとく、今の男に、うるわしみせよと云えるなり。「見るめなきわが身を云云、この歌のこと、古今集の遠鏡に云えり。さてこの歌をここに出だせるは、下の句、はしの詞にかなわず聞ゆ。又色このみなる女と云うことも、ここに有るべき詞に有らず。これらによりて思うに、これは、「秋の野にちょう歌の次に、多く詞落ちて、もと上とは別条にぞ有りけむ。え得ずなりにける事、わびたりける人の云云、真名本には、わびを慙と書けり、共にかなえりとも聞えず。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つかえし「下ひもの云云、又かえし「恋しとは云云、この又のかえし、かなえりとも聞えず。真名本には、この二首は、上とは別条にて、「恋しとは云云、かえし「下ひもの云云と有り、よろし。今はさること似げ無く云云、誰とも無くて、斯く云えること聞えず。真名本には、なま翁の今は云云と有り、よろし。されど歌の上に、中将なりける翁と有るは悪ろし、かの翁とこそ云うべけれ。又は上を、中将なりける翁今はさること云云と云いて、歌の所には、何とも云わでも有りなん。大鷹のたかがいを、真名本に、大方之鷹飼と有るは、ひがことなり。西宮記にも、鷹飼王卿、大鷹飼者、地摺の猟衣、綺の袴、玉帯を著く、鷂飼者云云と有る、ここによくかなえるをや。昔みかど住吉に云云、この条すべて詞足らず。他条の例に似ず。「我見てもの歌も、誰が歌とも、わきまえがたく、大神の現形も俄なり。他条の例にならいて云わば、昔男、みかどの住吉に行幸し給いける、御供につかうまつりて詠める、「我見ても云云、と詠めりければ、大神云云、などこそ有るべけれ。「むつまじと云云の歌は、何事ぞや。二の句を、君は知らずやとすれば、大かた聞ゆるようには有れど、猶いとつたなし。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つこの蛍のともす火にや云云、ここは真名本に、この蛍のともしびにや似むと思いて、消ちなんとすとて、男詠める、と有るぞよろしき。但し上に、車なりける人と有れば、下なる男と云う事は、無くてあらまほし。もし又、ともし火にや似んと思えるを、女の心とせば、思いければ、などこそ有るべけれ、思いてと云いては、かなわず。「出でていなば誰か別れの云云、この歌、上と下と縁無し。又はしの詞にもいとうとし。真名本に、初めの句、いといてはと有るも聞えず。又真名本に、この歌の次に、女返に付けて、「いずくまでおくりは云云、この歌もおさなし。なおおもいてこそ、聞えず。真字本に、なおざりにとあるにて聞ゆ。今の翁まさにしなんやは、為なんやにて、然るすける物思いをば為なんやの意なり。死なんやにては、からうじて息出でたり、と云うにかなわず。「いでていなばかぎりなるべし云云、古えの人も、かばかり拙き歌詠みけるにや。これは上に云うべかりけるを、おとしたるなり。なおはたえ在らざりける中なりければ、この詞あまりて聞ゆ。真名本には、さりとてはた、いかでは、え在らざりける中なりければと有り。心にとどめてよますはらに云云、聞えぬ事なり、真字本は聞ゆ。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つむかし男久しう云云、真名本に、云えりければの下に、女とあり。むかし女の、あだなる男の云云、女のの、の文字、ひが事なり。すべてのちょう辞は、心得有りて、おくべき所と、必ず置くまじき所との有る事なるを、これはさるわきまえをも知らぬ、後の人の、何心も無く加えたるなるべし。真名本に、女のと云う事無し。それも女と云う言足らず。むかし男、女のまだ世へずと云云、このくだり詞ととのわず。物聞えたるを、後に聞きて、などこそ有るべけれ。
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