玉勝間 / 一の巻 歌の御会のめぐらし文
甘露寺權大納言元長卿記云、永正五年正月十四日、和哥御會書廻文、以釜殿遣之、鷺有慶音、右御題、來十九日可有披講、可令豫參給由、被仰下候也、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(此所同じつらに廿三人の名あり)袖書尅限可爲午ノ一點也、丞相別紙以折紙相觸之。
新字:甘露寺権大納言元長卿記云、永正五年正月十四日、和歌御会書廻文、以釜殿遣之、鷺有慶音、右御題、来十九日可有披講、可令予参給由、被仰下候也、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(此所同じつらに廿三人の名あり)袖書尅限可為午ノ一点也、丞相別紙以折紙相触之。
書き下し
甘露寺権大納言元長卿記に云う、永正五年正月十四日、和哥御会の廻文を書き、釜殿を以て之を遣わす、鷺に慶音有り、右の御題、来る十九日披講有るべし、予参せしめ給うべき由、仰せ下され候なり、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(この所同じつらに廿三人の名あり)袖書に尅限は午の一点たるべきなり、丞相には別紙の折紙を以て之を相触る。
現代語訳
甘露寺権大納言元長卿の日記にこうある。「永正五年正月十四日。和歌御会の回状を書き、釜殿(の下役)に持たせて回した。『鷺に慶びの声有り。右の御題で、来る十九日に披講があるので、前もって参上なさるように、との仰せである。正月十四日、元長。中御門大納言殿』(この所に同じ列に二十三人の名がある)。袖書に、時刻は午の一点(正午ごろ)とする、とある。大臣には別紙の折紙で知らせた。」
解説
宮中の歌会の案内状、廻文の書式を甘露寺元長の日記から写した段である。題は「鷺に慶音有り」、十九日に披講するので参上せよという天皇の仰せを、元長が回状に書き、宛名には二十三人の公卿の名が並ぶ。時刻は袖書に午の一点と添え、大臣には別に折紙で知らせる。戦国の世にも宮中の歌会は細々と続き、その運営にはこうした決まった書式があった。宣長は歌を学問と並ぶ大事なものと考え、朝廷の歌の伝統に深い関心を寄せていた。案内状という地味な文書にも、身分に応じた作法や手順が表れている。有職故実を学ぶ人にとっては、こうした実物の書式が何よりの手本になる。
関連する章句
-
『玉勝間』十の巻 歌会同じ記に云う、嘉吉二年九月十八日、今日冷泉中将持和朝臣の宿所に参る、(近衛室町の辺なり)去月この宿所に移住す云々。一盞分撓し、之より雑談に及ぶ。和歌の懐紙の書き様、また会の座に懐紙を置く様、講師已下の条々の作法、具に之を口伝せらる、記録に遑あらざる者なり、云々。同日今夜、飯尾新左衛門尉為数の亭にて和歌会なり、云々。常光院大僧都堯孝題を出すなり。今夜読師たり。蜷川新右衛門入道智蘊講師たり、云々。今夜新右衛門講師の時、堯孝が短冊には、大僧都とよめり。懐紙もまた之に同じ、その外は皆実名、官途実名なり。聊か思惟有るべきか、如何。実名の中、ちと然るべきの輩、微音なり。その験有り、愚存もまたかくの如し。先ず懐紙を講じて後、次に短冊を披講す。
-
『玉勝間』六の巻 賀陽院歌合青地の小文の錦。右、紫檀の消坏の台の上に、銀の消盃を居うるなり。左右に筆一双、墨一つを立つること唐人の硯のごとし、台の辺に和歌の書五巻を立つ。打敷は赤地の小文の錦。和歌の書物の巻文、各五巻(春夏秋冬祝、各一巻、瑠璃の軸、色々の色紙、下絵、左方は女絵、右方は男絵、皆歌の情を書くか。美麗過差極まり無し)。歌人(左、女房、中納言君、筑前君、周防掌侍、讃岐君、紀伊君、信濃君、摂津君。右、男房、通俊卿、匡房卿、顕綱朝臣、正家朝臣、頼綱朝臣、俊頼朝臣)。次に講師を召す(左、右大弁基綱朝臣、衣冠。右、下官、直衣)。各々これを講ず。帥大納言判者と為り、中宮大夫紙を執筆す。度毎に勝負す。先ず春夏秋冬祝、次第此のごとし。夜参半に及ぶ。歌講ずるの間、菓子肴物を居う(大殿の陪膳、左少将有宗朝臣、左府殿下、地下の四位、左府は有宗朝臣、殿下は〓家朝臣)。初献は勧盃無し。第二献は皇大后宮権大夫。次に対の南面の饗饌をこの座に移し居え、頻りに盃酌す。暁更に及びて事了る。次に管絃の具を召し、御遊有り。帥大納言(琵琶)、藤大納言(箏)、左大将(笛)、政長朝臣(拍子)、予と宗輔(共に笙)、皇大后宮権大夫(付歌)。呂は、安名尊、鳥の破。律は、更衣、太平楽の破、三台の急。前の池に船楽を儲く(楽人等をして奏せしむ、布衣或いは冠)。次に引出物の馬三疋を牽く(関白、左大臣、帥)。人々退出す。
-
『玉勝間』十三の巻 長歌は今はたやすくは詠まぬ事と云ふ事逍遥院の大臣の、きぬかずきの日記の跋に、事のついでに申し出で侍る。長歌と云う物、この頃となりて、たわやすく詠まぬ事のようになれるは、いかなる故の侍るならむ、いと覚束なき事なりと見ゆ。
-
『玉勝間』二の巻 円融太上天皇紫野御子日の事この間蹴鞠の事有り、左大将・左衛門督・源中納言・両三位・藤宰相・余及び殿上の侍臣等蹴鞠の事あり、黄昏に及びて仰せて曰く、和歌に至りては、院に於て序を献じ和歌等を置くべし、各者(てえり)、燭を秉りて本院に還り〓御す、公卿を御前に召して歌遊びの事有り、余を召して和歌の講師と為す、右大臣以下和歌を献ず、左大臣は献ぜず、如何如何、左右両丞相に御衣を賜う、納言以下に白掛を賜い、侍臣に疋絹、また御随身に給う、深更に各各分散す、紫野に御する間、内より使右近少将信輔御訪い有り、即ち御簾の外に召し、円座を給いて御消息を申す、余禄を執りて之を被く、拝舞の間、失礼太だ多し、今日四位五位六位皆綾羅を着す、如何、下官は白襖・薄色の狩袴を着するなり。
-
『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
-
『玉勝間』六の巻 賀陽院歌合同じ記に云う、同八年八月十九日、今夜大殿、賀陽院に於て、歌合の興有り。これ永承の例に依りて、女房と男房とを読人と為す。秉燭の間、人々参集す。東の対の南面に、公卿の饗饌を居う。殿上人は、同じく東面の庇の饗、諸大夫の饗は、侍所に在り云云。然りと雖も着かれず。寝殿の巽の角、東面の戸の前に、切燈台二本を立つ(風流無し)。その前に円座二枚を敷き、左右の講師の座と為す。東の透渡殿に、西を上とし南北に対座して、公卿の座を敷く(高麗端、対座)。人々先ず相分かれて著かしめ給う。左方(北)、大殿、殿下、藤大納言(□□)、民部卿(俊明)、右衛門督(公実)、藤中納言(基忠)、江中納言(匡房)、皇大后宮権大夫(公定)。右方(南)、左大臣、帥大納言(経信)、東宮大夫(師忠)。殿上人、大蔵卿道良朝臣、備中守政長朝臣、右大弁基綱朝臣、頭中将国信朝臣、右中弁宗忠、左馬頭師隆朝臣、権中将顕実朝臣、右馬頭兼実朝臣、四位藤少将有家朝臣、左京権大夫俊頼朝臣、四位権少将能俊朝臣、四位侍従宗信朝臣、尾張守忠〓朝臣、蔵人兵部大輔通輔、侍従家政、蔵人右少弁時範、源少将有賢、民部大輔基兼、新少将宗輔、蔵人玄蕃助宗佐、左近将監仲兼、相分かれて渡殿の南北の欄外に候す。次に東の戸の前に、左右の文台を立つ。左、銀の透かしの手巾の筥、白き浮線綾の巾を入れ、打敷。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る