玉勝間 / 九の巻 巻頭花の雪九
やよひの頃、ある所にて、櫻の花の、木本に散りしけるを見て、一とせ吉野に物せし時も、おほくはかうやうにこそ散ぬる程なりしかと、ふと思ひ出られけるままに、ふみ分し昔戀しきみよしのの山つくらばや花の白雪かきあつめて、例の卷の名としつ。雪の山つくられし事は、物に見えたり。
新字:やよひの頃、ある所にて、桜の花の、木本に散りしけるを見て、一とせ吉野に物せし時も、おほくはかうやうにこそ散ぬる程なりしかと、ふと思ひ出られけるままに、ふみ分し昔恋しきみよしのの山つくらばや花の白雪かきあつめて、例の巻の名としつ。雪の山つくられし事は、物に見えたり。
書き下し
やよいの頃、ある所にて、桜の花の、木本に散りしけるを見て、一とせ吉野に物せし時も、多くはこうようにこそ散りぬる程なりしかと、ふと思い出でられけるままに、ふみ分けし昔恋しきみよしのの山つくらばや花の白雪かきあつめて、例の巻の名としつ。雪の山つくられし事は、物に見えたり。
現代語訳
三月の頃、ある所で、桜の花が木の根もとに散り敷いているのを見て、ある年吉野へ出かけた時も、おおかたこのように散ってしまう頃であったと、ふと思い出されたので、「花を踏み分けて歩いた昔が恋しい。あの吉野の山を作りたいものだ、花の白雪をかき集めて」と詠み、いつものようにこれを巻の名とした。雪で山を作られたことは、書物に見えている。
解説
九の巻の巻頭の書き付けで、この巻は「花の雪」と名づけられた。散り敷いた桜を見て、かつて吉野を訪ねた折の落花を思い出し、その花びらを雪に見立てて、かき集めて吉野の山を作りたいと詠んだのである。宣長は生涯山桜を愛し、四十代で吉野に花を見に出かけて紀行も残している。末尾の「雪の山」は、宮中で雪を積み上げて山を作らせた話が古い物語や随筆に見えることを踏まえたもので、雪の山を花の雪の山に転じた趣向である。考証の巻の入口に、自分の歌と古い宮廷の風雅を重ねて置く。学問の書き物を、暮らしの中で動いた心から書き起こす習いがここにも続いている。
関連する章句
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