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玉勝間 / 十四の巻 孔丘を文宣王と云ふ事

續紀に、神護景雲二年七月、大學助〓正六位上膳臣大丘言大丘、天平勝寶四年、隨使入唐、聞先聖之遺風、覽膠岸之餘列、國子監有兩門、題曰文宣王廟、時有國子學生程賢、告大丘曰。今主上大崇儒範、追改、爲王、鳳德之徵于今至矣。然、准舊典、猶稱前號、誠恐乖崇德之情、失致敬之理、大丘庸闇、聞斯行諸、敢陳管見、以請明斷、勅、號文宣王と見ゆ。孔丘を文宣王と號こと、皇朝にしては、是ノ時より始まれり。

新字:続紀に、神護景雲二年七月、大学助〓正六位上膳臣大丘言大丘、天平勝宝四年、随使入唐、聞先聖之遺風、覧膠岸之余列、国子監有両門、題曰文宣王廟、時有国子学生程賢、告大丘曰。今主上大崇儒範、追改、為王、鳳徳之徴于今至矣。然、准旧典、猶称前号、誠恐乖崇徳之情、失致敬之理、大丘庸闇、聞斯行諸、敢陳管見、以請明断、勅、号文宣王と見ゆ。孔丘を文宣王と号こと、皇朝にしては、是ノ時より始まれり。

書き下し

続紀に、神護景雲二年七月、大学助教正六位上膳臣大丘言す、大丘、天平勝宝四年、使に随いて唐に入り、先聖の遺風を聞き、膠序の余烈を覧る、国子監に両門有り、題して文宣王廟と曰う、時に国子学生程賢という有り、大丘に告げて曰く、今主上大いに儒範を崇び、追い改めて、王と為す、鳳徳の徴、今に至れり。然るに、旧典に准じて、なお前号を称するは、誠に恐らくは崇徳の情に乖き、致敬の理を失わんと、大丘庸闇なれども、斯を聞きては諸を行う、敢えて管見を陳べて、以て明断を請うと、勅して、文宣王と号すと見ゆ。孔丘を文宣王と号すること、皇朝にしては、この時より始まれり。

現代語訳

『続日本紀』に、「神護景雲二年七月、大学助教で正六位上の膳臣大丘が申し上げた。『私大丘は天平勝宝四年に遣唐使に従って唐に入り、先聖(孔子)の遺風を聞き、学校の遺した功績を見ました。国子監に二つの門があり、額に文宣王廟と記されていました。そのとき国子学生の程賢という者がいて、私に告げて言いました。「今の皇帝は大いに儒教の規範を尊び、追って孔子の称号を改めて王とされた。鳳凰の徳の徴が、今ここに至ったのである」と。ところが我が国では古い典拠に従って、なお以前の号を称しているのは、まことに恐らく徳を尊ぶ心にそむき、敬いを尽くす道理を失うことになりましょう。私は凡庸で愚かですが、聞いたことは行うべきだと考え、あえて狭い見識を申し述べて、明らかなご判断をお願いいたします』。勅して文宣王と号することにした」と見える。孔丘を文宣王と号することは、我が朝廷においては、このときから始まったのである。

解説

孔子を「文宣王」と呼ぶことが日本でいつ始まったかを、『続日本紀』の記事で示した段である。唐の玄宗は開元二十七年(七三九年)に孔子を文宣王に追封した。遣唐使に従った膳臣大丘が、唐の国子監で「文宣王廟」の額を見、学生程賢から日本がなお旧号を用いているのは敬意を欠くと言われたことを奏上し、神護景雲二年(七六八年)に日本でも文宣王と号することになった。宣長は事実を記すだけで評を加えていないが、ここでも孔子を「孔丘」と実名で呼び捨てにしているところに、儒教の聖人を特別扱いしない宣長の姿勢が表れている。唐の制度の変更がすぐに日本の儀礼に持ち込まれた経緯は、当時の朝廷がいかに唐を手本としていたかをよく示している。

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