玉勝間 / 十四の巻 夜〃寝ず起てゐるを居と云へる事
萬葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黑髪に霜はふるとも、十一に、「眞袖もち床うちはらひ君まつと居しあひだに月かたぶきぬ、十八に、「乎里安加之こよひはのまむ、郭公あけむあしたはなきわたらむぞ、廿に「家おもふといをねず乎禮婆、たづがなくあしへも見えず春の霞に、猶あり。大かた此たぐひの居は、ただ一わたり輕くつねに云ふとはかはりて、夜寝ずに、起て居る意なり。輕く見べからず。
新字:万葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「真袖もち床うちはらひ君まつと居しあひだに月かたぶきぬ、十八に、「乎里安加之こよひはのまむ、郭公あけむあしたはなきわたらむぞ、廿に「家おもふといをねず乎礼婆、たづがなくあしへも見えず春の霞に、猶あり。大かた此たぐひの居は、ただ一わたり軽くつねに云ふとはかはりて、夜寝ずに、起て居る意なり。軽く見べからず。
書き下し
万葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「真袖もち床うちはらい君まつと居りしあいだに月かたぶきぬ、十八に、「おりあかしこよいはのまむ、ほととぎすあけむあしたはなきわたらむぞ、二十に「家おもうといをねずおれば、たずがなくあしべも見えず春の霞に、なおあり。大かたこのたぐいの居は、ただ一わたり軽くつねに云うとはかわりて、夜る寝ずに、起きて居る意なり。軽く見るべからず。
現代語訳
『万葉集』巻二に「起きて夜を明かしてあなたを待とう。私の黒髪に霜が降るとしても」、巻十一に「両袖で床を払ってあなたを待とうと起きていた間に、月が傾いてしまった」、巻十八に「起きて夜を明かして今夜は飲もう。ほととぎすは明日の朝には鳴き渡るだろうから」、巻二十に「家を思って眠れずに起きていると、鶴の鳴く葦辺も見えない、春の霞で」とあり、まだほかにもある。おおよそこの類いの「居る」は、ただ一通り軽くふだん言うのとは違って、夜に寝ないで起きている意味である。軽く見てはならない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 同集に必みけりけると云ふべきところに在ノ字を書る事同集に、必ずケリ、ケルと云うべき処に、在の字を書ける例、七の巻に、君がため云云沾れにける哉、十の巻に、誰が苑の云云咲きにけるかも云云、また零る雪云云月経にける、十一の巻に、世の中云云猶恋いにける、また石すら尚云云後悔いにける、また行き行き云云沾れにける哉、また是の川云云乗りにけるかも。これらの在の字、来の誤りと云う人もあれど、かくあまた例あれば、然は云いがたし。又強いて皆、ニタルとも訓むべけれども、猶ケル、ケリならでは、穏やかならぬところなり。又同巻に、大土云云恋いにける、また袖振る云云隠れにける、これらも、アリ、タリは読み付けて在の字は、ケル、ケリなり。そもそもケル、ケリに、この字を書ける事、いかなる由にか、いまだ考え得ず。つねに来の字を書くは、来而在を、古言に祁理と云う故に、それを借りたるものなり。こは事のついでに云うなり。
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『玉勝間』十四の巻 又たとへ歌のやうたとえ歌、古今集よりこなたのはその歌を見れば、譬えたる意あらわに知らるるように詠みたる物なり。然るに、万葉集なるは、その事にあたりて、その詠みたる人は、譬えたる心を知るべけれど、後にその歌を見たるのみにては、たとえたる意はこまかには知れ難きが多し。されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、確かには云いがたき歌おおし。その心してとくべきなり。又万葉のたとえ歌は、その譬えたる草木鳥虫のうえの詞と、ただに恋のうえを云える詞とを、あいまじえて詠める多し。これ又心得おくべし。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
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『玉勝間』六の巻 ありきぬ万葉十四の巻に、安利伎奴乃、佐恵佐恵(○原本左左悪恵)之豆美、十五の巻に、安里伎奴能、安里弖能知爾毛、十六の巻に、蟻衣之宝之子等など有る、ありきぬは、鮮やかなる衣なり。ありとは、あざやかなるを云う。あざやかと云う言も、即ちありざやかなり。また俗言に、物のあざやかに見ゆるを、ありありと見ゆと云うも是なり。また月に有明と云うも、空に月の在りて、夜の明くる意にはあらず。夜の明けがたには、月の影の、殊にあざやかに見ゆる物なればあざやかにて明くるよしにて、ありあけの月とは云うなり。書紀の欽明の御巻に、髴氈をありかもと訓めるも、鮮やかなるよしなり。こは後漢書に、天竺国に細布、好能氈有り、と見えたり。さて右の万葉十四の巻なる歌、四の巻には、珠衣乃と有るを、師はそれをも、ありきぬと訓みて、ありきぬを、珠の事に解かれたれども、四の巻なるは、たまきぬにて、裳に玉裳と云うたぐいなり。また十六の巻、宝の枕詞に云えるは、鮮やかなるよき衣を、珍でてやむことなくする物をば、たからとする意に続けたるなり。衣服にまれ何にまれ、たからと云う、常の事なり。
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『玉勝間』十三の巻 同集の歌に生刀もなしと云へる詞同集の歌に、生けるともなしと詠める多し。二の巻に、「衾道を」云云「生けるともなし」、また「衾路」云云「生けるともなし」、また「天離る」云云「生けるともなし」、十一の巻に、云云「吾が心利の生けるともなき」、十二の巻に、「萱草」云云「生けるともなし」、また「うつせみの」云云「生けるともなし」、また「まそかがみ」云云「生けるともなし」、十九の巻に、「白玉の」云云「いけるともなし」、これらなり。いずれもみな、十九の巻なる仮字書きにならいて、イケルトモナシと訓むべし、本にイケリトモナシと訓めるは誤りなり。生ける刀とは、刀は利心、心利などの利にて、生ける利心も無く、心の空けたるよしなり。されば刀は、辞の登にはあらず。これによりて伊家流等と云えるなり。もし辞なれば、イケリトモナシと云うぞ、詞のさだまりなる。又刀の字などは、てにをはのトには用いざる仮字なり。これらを以て、古、仮字づかいの厳なりしこと、又詞つづけのみだりならざりし程をも知るべし。然るを本に、イケリトモナシと訓めるは、これらのわきためなく、ただ辞と心得たるひがことなり。
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