玉勝間 / 十四の巻 五日の節菖蒲ノ縵
同紀に、同十九年五月丙子朔庚辰、太上天皇詔曰、昔者五日之節、常用菖蒲爲縵、比來停此事、從今而後、非菖蒲縵者、勿入宮中。
新字:同紀に、同十九年五月丙子朔庚辰、太上天皇詔曰、昔者五日之節、常用菖蒲為縵、比来停此事、従今而後、非菖蒲縵者、勿入宮中。
書き下し
同じく紀に、同じく十九年五月丙子朔庚辰、太上天皇詔して曰く、昔は五日の節には、常に菖蒲を用いて縵と為す、比来この事を停む、今より後、菖蒲の縵に非ざる者は、宮中に入ること勿かれ。
現代語訳
同じ『続日本紀』に、「同じ天平十九年五月丙子朔の庚辰の日、太上天皇(元正上皇)が詔して言われた。『昔は五月五日の節会には、いつも菖蒲を髪飾りの縵としていた。近ごろはこのことをやめている。今から後は、菖蒲の縵をつけていない者は、宮中に入ってはならない』」とある。
解説
五月五日の節会に菖蒲を頭に飾る「菖蒲縵(あやめのかずら)」の習いを、元正太上天皇が復活させた記事を抜き出した段である。端午の節に菖蒲や蓬で邪気を払う風は中国から伝わったものだが、日本では早くから宮中の行事として根づいていた。それが一時すたれていたのを、上皇が詔で改めて命じ、つけていない者は宮中に入れないとまでしたのである。宣長は説明を添えていないが、年中行事の起こりや移り変わりを記録から拾い出すことは、有職故実への関心の一つであった。今も端午の節句に菖蒲湯に入る習慣が残っているように、行事の形は変わっても、季節の節目に身を清めるという心は長く受け継がれている。すたれかけた習いを取り戻そうとした人がいたことも、記録から読み取れる。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 あやめのまくら同じ書に、暦仁元年五月四日、晩に及びて将軍家より、昌蒲の御枕(金銀を鏤む)ならびに御扇等を公家に調進せらる云々。件の御枕は、六位の定役として調進する者なり、而るに御進物を求めらるるの次に依りて、かくの如し云々。あやめの枕の事、あだし書どもにも見えたるを、今はえ思い出でねばしるさず。思い出でたらん時に、またもしるすべし。
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『玉勝間』三の巻 みちのくには五月五日にかつみをふくと云ふ事宗久法師が、都のつとと云う物に云わく、みちの国浅香の沼を過ぐ云云。此国にもあやめの有るにやと、年月ふしんにおぼえしかば、この度人に尋ねしに、当国にあやめの無きにはあらず、されどもかの中将の君くだり給いし時、なにのあやめも知らぬしずが軒端には、いかで都の同じあやめを葺くべきとて、かつみを葺かせられけるより、これを葺き伝えたるなりと、かたり侍りし云云、と云えり。国人の語りし説、受けられず。
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『玉勝間』十三の巻 唐法に依べき詔書の事同紀に、承和九年、文章博士従三位菅原朝臣清公薨ず、その伝に、弘仁九年、詔書有り、天下の儀式、男女の衣服、皆唐法に依り、五位已上の位記、改めて漢様に従い、諸宮殿院堂門閣、皆新額を着け、又百官の舞踏を肄う、此の如き朝儀、並びに関説を得、と見えたる、この事国史には見えず。記略に、弘仁九年三月丙午、詔して曰く云云、その朝会の礼、及び常に取服する者、又卑の貴に逢いて跪く等、男女を論ぜず、改めて唐法に依れ。但し五位已上の礼服、諸の朝服の色、衛仗の服、皆旧例に縁りて、改張すべからずと有り。弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給いしみかどにぞおわしましける。
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『玉勝間』八の巻 東宮御炙治増鏡に、後宇多の天皇の、いまだ東宮におわしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云える所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉の天皇厳島御幸の記に、御灸の事見えて、さきの巻に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりいさせ給いて後なり。
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