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玉勝間 / 八の巻 東宮御炙治

增鏡に、後宇多ノ天皇の、いまだ東宮におはしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云へる所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉ノ天皇嚴島御幸ノ記に、御灸の事見えてさきの卷に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりゐさせ給ひて後なり。

新字:增鏡に、後宇多ノ天皇の、いまだ東宮におはしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云へる所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉ノ天皇厳島御幸ノ記に、御灸の事見えてさきの巻に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりゐさせ給ひて後なり。

書き下し

増鏡に、後宇多の天皇の、いまだ東宮におわしましける程、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べき由を云える所に、いまだ例無き事は、いかが有べきと、定めかねらる。位にては、ただ一たびためし有けり。春宮にては、いまださるためし無かりけれど、いかがはせむとて、おぼし定むと有り。高倉の天皇厳島御幸の記に、御灸の事見えて、さきの巻に引出たり。ただ一たびためし有とは、是れを申せるにや。されどこれは、御位のほどには有らず、おりいさせ給いて後なり。

現代語訳

増鏡に、後宇多天皇がまだ東宮でいらした頃、ご病気の時に、医師が申し上げたことによって、お灸の治療をすべきであるということを言っている所で、「まだ先例のないことはどうしたものかと、決めかねておられる。天皇の位にある方では、ただ一度先例があった。東宮ではまだそういう先例はなかったけれど、やむをえないとお決めになる」とある。高倉天皇厳島御幸記にお灸のことが見えて、前の巻に引いておいた。「ただ一度先例がある」とはこれを申したのであろうか。しかしこれは、天皇の位にあられた間のことではなく、譲位なさった後のことである。

解説

皇太子に灸をすえるかどうかが朝廷で真剣に議論されたことを、増鏡から取り上げた段である。天皇や皇太子の体に傷をつけることは畏れ多いとされ、灸治のような治療にも先例の有無が問われた。増鏡は、天皇には一度だけ先例があるが、東宮には例がなく、それでもやむをえず行うことにしたと伝える。宣長は、その一度の先例とは高倉天皇が厳島に御幸した折の記録に見える灸のことかと推し、しかしそれは譲位後の上皇の時のことで、在位中の先例とは言えないと正確に指摘する。以前の巻で引いた記事と照らし合わせる、手控えを積み重ねた宣長ならではの読み方である。医師でもあった宣長には、病を前にしても先例を重んじる宮廷の慎重さが興味深かったのだろう。命にかかわる判断にまで前例を求めた朝廷の姿は、前例主義の功罪を考えさせる。

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