玉勝間 / 四の巻 あやめのまくら
同書に、曆仁元年五月四日、及晩自將軍家、被調進菖蒲御枕、(鏤金銀、)并御扇等於公家云云。件御枕者、爲六位定役調進者也、而依被求御進物之次、如此云云。あやめの枕の事、あだし書どもにも見えたるを、今はえ思ひ出ねばしるさず。思ひ出たらん時に、又もしるすべし。
新字:同書に、暦仁元年五月四日、及晩自将軍家、被調進菖蒲御枕、(鏤金銀、)并御扇等於公家云云。件御枕者、為六位定役調進者也、而依被求御進物之次、如此云云。あやめの枕の事、あだし書どもにも見えたるを、今はえ思ひ出ねばしるさず。思ひ出たらん時に、又もしるすべし。
書き下し
同じ書に、暦仁元年五月四日、晩に及びて将軍家より、昌蒲の御枕(金銀を鏤む)ならびに御扇等を公家に調進せらる云々。件の御枕は、六位の定役として調進する者なり、而るに御進物を求めらるるの次に依りて、かくの如し云々。あやめの枕の事、あだし書どもにも見えたるを、今はえ思い出でねばしるさず。思い出でたらん時に、またもしるすべし。
現代語訳
同じ書に、「暦仁元年(1238年)五月四日、夕方になって将軍家から、菖蒲の御枕(金銀をちりばめたもの)ならびに御扇などを朝廷に調えて献上された云々。この御枕は六位の者の定められた役として調進するものであるが、御進物を求められたついでによって、このようにした」云々とある。あやめの枕の事は、ほかの書物にも見えているのだが、今は思い出せないので記さない。思い出した時に、また記すことにしよう。
解説
吾妻鏡から、端午の節句の「あやめの枕」の記事を抜き出した一段である。五月五日の節句の前夜には、菖蒲を枕の下に敷いたり枕に仕立てたりして邪気を払う習わしがあり、宮中では六位の役人が調えて奉るのが定めであった。その年は、朝廷から鎌倉に進物を求められたついでに、将軍家が金銀をちりばめた菖蒲の枕と扇を献上した、という記事である。宣長は、ほかの書にも見えたはずだが今は思い出せないので記さない、思い出したらまた記す、と正直に書き添えている。巻頭で物忘れを嘆いた宣長の、覚え書きの帳面としての玉勝間の性格がよく出ている。確かでないことは書かずに保留し、後で補う。記録を扱う者の慎重さである。
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 五日の節菖蒲ノ縵同じく紀に、同じく十九年五月丙子朔庚辰、太上天皇詔して曰く、昔は五日の節には、常に菖蒲を用いて縵と為す、比来この事を停む、今より後、菖蒲の縵に非ざる者は、宮中に入ること勿かれ。
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『玉勝間』三の巻 みちのくには五月五日にかつみをふくと云ふ事宗久法師が、都のつとと云う物に云わく、みちの国浅香の沼を過ぐ云云。此国にもあやめの有るにやと、年月ふしんにおぼえしかば、この度人に尋ねしに、当国にあやめの無きにはあらず、されどもかの中将の君くだり給いし時、なにのあやめも知らぬしずが軒端には、いかで都の同じあやめを葺くべきとて、かつみを葺かせられけるより、これを葺き伝えたるなりと、かたり侍りし云云、と云えり。国人の語りし説、受けられず。
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『玉勝間』四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ同じき十三日、駿河の国浮島原を過ぎられけるほど、按察光親の卿きのう殺されぬるよしを聞きて、我が身も、今日あす必ず失われなん事を思いて、黄瀬川うまやにやすまれける程に、筆のついでに、「きょう過ぐる身をうきしまの原にてぞついの道をば聞きさだめつる、これも同じ書にしるせり。この歌のはての句、古今著聞集には、ついの命をまた定めつると有るは、ひが事なるべし。また同書に、嘉禎元年正月二十一日、御願の五大堂建立の事、相州・武州度々巡検し、鎌倉中の勝地を撰び録せらる云々、頗る思し召し煩うの処、幕府の鬼門の方に相当りて、この地有り、毛利蔵人大夫入道西阿の領なり、御祈祷相応の処たるに依りて、これを点ぜられ、即ち地を引かれ訖んぬ、とあり。鬼門の方と云うこと、この頃より見えたり。鬼門と云う名は、古きからぶみにも見えたり。
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『玉勝間』四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黄門(忠信)の使者、京都より参着す、蹴鞠の書一巻を送らる、かの卿去年十二月、紫革の韈を聴さる、宗長朝臣も同じ云々。将軍家諸道を賞翫し給う中に、殊に御意に叶う者は、歌鞠の両芸なり。また同年八月二十九日、去る十六日、仙洞の秋十首歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊にこれを賞翫せしめ給う云々。また同三年七月六日、坊門黄門(忠信卿)去る六月二日の仙洞歌合(衆議判)一巻を将軍家に進ぜらる、これ内々の勅定に依るなり云々、将軍は実朝の大臣なり。この大臣、公暁にころされ給わむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有りける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髪を一すじ抜き給いて、形見とて給わせけり。また庭の梅の花を見給いて、ゆゆしき歌をなん詠み給いける、「出でていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門の入道中納言宗行の卿、とらわれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江の国菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寝られず、法華経を読みて、屋の柱に書きつけられける。昔南陽軒の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今東海道の菊河、西岸に宿りて命を失う、とぞ書きつけられける。
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