玉勝間 / 十三の巻 唐法に依べき詔書の事
同紀に、承和九年、文章博士從三位菅原朝臣清公薨、その傳に、弘仁九年、有詔書、天下儀式、男女衣服、皆依唐法、五位已上位記、改從漢樣、諸宮殿院堂門閣、皆着新額、又肄百官舞踏、如此朝儀、並得關說、と見えたる、此事國史には見えず。記略に、弘仁九年三月丙午、詔曰云云、其朝會之禮、及常取服者、又卑逢貴而跪等、不論男女、改依唐法。但五位已上禮服、諸朝服之色、衛仗之服、皆緣舊例、不可改張と有。。弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給ひしみかどにぞおはしましける。
新字:同紀に、承和九年、文章博士従三位菅原朝臣清公薨、その伝に、弘仁九年、有詔書、天下儀式、男女衣服、皆依唐法、五位已上位記、改従漢様、諸宮殿院堂門閣、皆着新額、又肄百官舞踏、如此朝儀、並得関説、と見えたる、此事国史には見えず。記略に、弘仁九年三月丙午、詔曰云云、其朝会之礼、及常取服者、又卑逢貴而跪等、不論男女、改依唐法。但五位已上礼服、諸朝服之色、衛仗之服、皆縁旧例、不可改張と有。。弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給ひしみかどにぞおはしましける。
書き下し
同紀に、承和九年、文章博士従三位菅原朝臣清公薨ず、その伝に、弘仁九年、詔書有り、天下の儀式、男女の衣服、皆唐法に依り、五位已上の位記、改めて漢様に従い、諸宮殿院堂門閣、皆新額を着け、又百官の舞踏を肄う、此の如き朝儀、並びに関説を得、と見えたる、この事国史には見えず。記略に、弘仁九年三月丙午、詔して曰く云云、その朝会の礼、及び常に取服する者、又卑の貴に逢いて跪く等、男女を論ぜず、改めて唐法に依れ。但し五位已上の礼服、諸の朝服の色、衛仗の服、皆旧例に縁りて、改張すべからずと有り。弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給いしみかどにぞおわしましける。
現代語訳
同じ『続日本後紀』に、承和九年に文章博士従三位菅原朝臣清公が亡くなり、その伝に、「弘仁九年に詔書があり、天下の儀式や男女の衣服はみな唐の法に依り、五位以上の位記は改めて中国風に従い、諸々の宮殿・院・堂・門・楼閣にはみな新しい額を掲げ、また百官に舞踏の礼を習わせた。このような朝廷の儀礼には、みな清公が関与して意見を述べた」と見えているが、このことは国史には見えない。『日本紀略』に、「弘仁九年三月丙午、詔して言う云々、朝会の礼、およびふだん着る衣服、また身分の低い者が貴い者に会ってひざまずくことなどは、男女を問わず改めて唐の法に依れ。ただし五位以上の礼服、諸々の朝服の色、儀仗の服はみな旧例によって、改めてはならない」とある。弘仁の帝(嵯峨天皇)は、とりわけ中国を好まれた帝であられた。
解説
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