玉勝間 / 十四の巻 諸国郡の図
同紀に、同十年八月、令天下諸國、造國郡圖進、
新字:同紀に、同十年八月、令天下諸国、造国郡図進、
書き下し
同じく紀に、同じく十年八月、天下の諸国をして、国郡の図を造りて進らしむ、
現代語訳
同じ『続日本紀』に、「同じ天平十年八月、天下の諸国に命じて、国と郡の地図を作って献上させた」とある。
解説
天平十年(七三八年)に、全国の国ごと郡ごとの地図を作って差し出させた記事を、そのまま書き抜いた短い段である。宣長は説明を加えていないが、前の段で見た和銅六年の風土記撰進の命と並べて読むと、律令国家が土地と産物、地名と伝承、そして地図によって国土を把握しようとしていたことが分かる。地図は徴税や行政の基礎であり、国の姿を目に見える形で確かめる手段でもあった。宣長自身、地理への関心が深く、若いころから地図を写し、京や諸国の地名を丹念に調べていた。短い抜き書きでも、それを書き留めた人の関心の筋を思い合わせると意味が見えてくる。記録の断片を集めておくこと自体が、のちの考証の土台になるのである。
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 風土記のおこり続紀に、和銅六年五月甲子、畿内七道諸国郡郷の名、好き字を着け、その郡内に生ずる所の、銀銅彩色、草木禽獣虫魚等の物、具さに色目を録し、及び土地の沃塉、山川原野の名号の所由、又古老の相伝うる旧聞異事、史籍に載せて言上せよとある。これ国々の風土記のおこりなり。畿の字の上に詔の字脱けたるか。
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『玉勝間』二の巻 国を州と云ふ事まずかの国の今までの例とは、封建と云いし代には、斉国魯国など云いつれども、いわゆる郡県になりてよりは、某国と云う事は、今までの代代には、例無ければなり。されどそれになずめるは、なかなかにかの国のこころにもあらずと云うゆえは、すべてかの国にて、かようの物の定めは、さきざきの例にはかかわらず、その時時の王の心にて、いかにもいかにも定むる事にて、その定めわろしとても、用いざるようは無し。されば地の分かちざまなども、後の代代には、くさぐさ有りて、先の代に例無き事もあれど、そはとまれかくまれ、その定めにこそは従うなれ。されば其のこころをもて云わば、皇朝にても天の下を、かの郡県の制にならいて定められたりし御代にも、その名をば改めず、なお古より有り来しままに、某国と定め給いたりしも、天皇の大御心にしあれば、なでう事かはあらん。なお云わば、から国のこころはいかにまれ、それにかかわるべき事やは。皇国は皇国なる物をや。
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『玉勝間』十三の巻 諸王の事件の天長九年の詔書には、王号乃ち五世に止まる、と有れども、続後紀、承和八年、十年十四年、嘉祥二年などのところに、六世某の王、七世某の王と云う名、多く見えたるは、いかなるにか。この事なおよく考うべし。
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『玉勝間』一の巻 また続紀よりつぎつぎの史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤りことに多く、脱けたることなども有り。そもそも、書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、続紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなること無く、ただ世のつねのから書の訓の如くにてよろしければ、今いかで三代実録までを、皆古き善き本を、これかれ読み合わせて、善きをえらびて、うるわしきえり板を成しおかまほしきわざなり。
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『玉勝間』八の巻 大嘗ゆきすきの国大嘗の悠紀主基は、かならず京より東と西なる国を、定めらるるように見えたれども、さしもあらざるにや。神亀元年の度は、由機備前の国、須機播磨の国なり。天平神護元年の度は、由機美濃の国、須伎越前の国なりき。
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